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NEXT LIFE  銀座の画廊 1

 その日、迎えの船が来た日のことだ。

 私は、銀座で絵を見ていた。その画廊の狭い入り口を入るとすぐに階段があった。ぐるぐると回って2階に上る。手すりは真鍮製なのか黄色く輝いていた。壁には、小さな額縁に絵がいくつかかけられていた。その内の一つは、青い背景にレモン色のおかっぱ頭の少女が、髪の間からぼんやりとにじんだ青い目でこちらを見ていた。空には黄色い月のようなものが浮かびその輪郭はやはりぼーっと滲んでいた。空の色は少し暗い藍色で雲のようなものが幾筋か輪を描くように浮かんでいた。

 少女の体は少し違和感があった。まるで、体全体は背中を向けて向こう側を向いているのに顔だけがこちらを見ているような奇妙なねじれを感じさせた。

 2階からエレベーターで7階に上り、そこで降りた。小さな部屋に入ると、麻で作られた薄いブラウスや、スカートがかけられていた。ほかにも、粘土でできた人形や、人形の暮らす家や、庭、それから和風と洋風の入り混じったビルが連なる街。その建物に取りつく様々な妖怪たち、などのオブジェ。

それらが、無造作に、あるいは雑然と置かれたように見えた。

 部屋を出ると、廊下があり、その壁にも額が飾られていた。短い廊下の先に階段をのぼると、また部屋があり、いくつかの絵が飾られていた。白い画布の中央を空へと駆け昇るように道が走り、その両脇には鳥が飛び立ち、その上をバラの花が舞う。中央の道を立派な角を持った牡鹿がかけてゆく。その絵のバラと牡鹿が私の記憶に残った。

 部屋を出て廊下の先の突き当りには一段上がった小部屋にコーヒーサイフォンと思しきものがあり、その先の誰もいないの屋上にはテーブルと椅子があった。屋上から銀座の街が見えた。その日はよく晴れた冬空で、遠く晴海のタワーまで見渡せた。
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NEXT LIFE 第一章 銀座の画廊 2

 7階に戻ると、エレベーターの前で黒いコートの女性とすれ違った。長い黒髪に眼鏡をかけたその女性の残り香がエレベーターの中の狭い空間を満たしていた。1階のボタンを押して、来る時には1階があることに気が付かなかったのだと思い、少し不思議な気がした。

 1階で降りると、目の前に開かれたドアがあり、正面は工事中の隣のビルの壁がすぐ目の前に迫っていた。一人通るのがやっとのその、隣のビルとの狭い境界を通って右手の表通りに出た。人気のないその通りは、普段の知っている銀座とは違っているように思えた。少し歩くと、黄色い髪に青い目をした少女が、もうみんな待ってるよ、と呼びかける。

 みんなって、誰の事かと訝しげに思い、少し目を凝らすと、川岸の上で懐かしい人の顔が2,3見える。誰とはハッキリ思い出せないのだが、何故だか懐かしい気持ちになり、川岸に並んで腰かけ、ビールを飲みながら空を見上げる。昔ばなしに花が咲き、大声で笑いながら、ふとこんな事はもうないのだなあ、と思う自分に気づく。見上げた空には、いつの間にか無数の星が光る。空一杯の星をみながら天の川かな、などと言いながらいつの間にか、夜空になっていたのだなと思い、友人の顔を見ると、見知らぬ老人の顔をしている。

 そうかと思うと、星の光と思っていたものが、無数の窓の明かりになり、天の川は、天の端から端まで続く巨大な船になる。船からはタラップが伸びてきて、地上に着くと大勢の人々がにこやかに笑いながら降りてくる。すると、あれは皆死んだ人だ、と誰かが言うのが聞こえる。そんなはずはないよ、と思い降りてきた人と、握手をする。ほら、こんなに暖かく柔らかい手をしている、生きているんだよ、と言って振り向くとそこにはもう誰もいなかった。

大勢の人と共に、幾千頭の馬と、立派な角をした鹿が下りてくる。そして、それに続いて、大きな棺を担いだ人々が通り過ぎる。人々は、復活の時が来た、大王様の復活の時が来た、と叫んでいる。

棺の蓋が開き、中から牡鹿の角を被った大王様が立ち上がると、人々は大王様と呼ぶ。大王様は、また皆とあえて喜ばしいという。一本の路が天上に向かって空を広げると、牡鹿と馬がその路を駆け上がる。翼を持った鳥が何百と舞い上がり、バラの花々が天上から舞い落ちる。

その路を、大王と従者たちが登ろうとする。

NEXT LIFE  銀座の画廊 3

 船から、音楽が聞こえ、いつの間にかドレスで着飾った人々がワルツを踊りだす。賑やかなそのダンスパーティーの様子に見とれていると、長い黒髪の女性が踊りませんか、と手を差し伸べてくる。踊りながらその人から漂う香しい匂いに心がざわつく。あなたも大王様と一緒に路を上るのですか、と問いかける。すると、その人は、私にはまだここに思いが残っています、という。大王様は何処へゆこうとしているのでしょうか。その人は黙って答えなかった。

 その人の匂いには覚えがあった。確かエレベーターですれ違った人の匂い、だと思った。長い黒髪が突然私を包み込んだ。匂いにくるまれているうちに、私にその人の記憶が伝わってきた。

 ダンスを踊っている人々は、いつの間にか泥でできた人形になっていた。鮮やかに彩色されて、まるで生きているように見えるのだが、音楽がやむと同時にみんな動かなくなってしまった。

 大王とその一行は、まだ路の途中だった。空には黄色くにじんだ月と、赤い星が見えた。船は誰もいなくなって、静まり返っていた。夜の暗闇の中で、私とその人だけがまだ生きていた。

 この船に乗るのですか、と私は尋ねた。いいえ、まだ乗れないのです、とその人が答えた。
まだ一日ありますね、少し散歩でもしましょうか、と二人で川岸を歩いた。

空はいつの間にか明るくなり、船の姿も見えなくなり、気が付けば晴海ふ頭の公園を歩いていた。

NEXT LIFE 銀座の画廊 4

 晴海の港に船が着き、また出てゆく。何処から来て何処へ行くのか、船が着くたびに降りる人と、また乗る人が交差する。幾つかの小さなボートが遠く波の上を走ってゆく。

 港を過ぎて、左手に白バイ隊の訓練をする様子が見える。右手のホテルの1階の窓からランチの食事をする人が見える。港を背にしてさらに進むと、林立するタワーマンションが見え、そこを過ぎれば古びた昔からの倉庫街がある。倉庫街の路地に入れば冬の日差しにさらされた鰹節から、茶色い湯気がたち昇りぼんやりと空気を滲ませる。その匂いが鼻腔をくすぐり体いっぱいに入ると、突然日常がよみがえった。

 あぁそうだ、池袋に行かなければ、と用事を思い出す。その途端、あたりの景色は一変し、私は銀座の雑踏に立ち戻る。正面に西銀座のショッピングセンターが見える。後ろには銀座三丁目の交差点。ゆっくりと現在地を確認し、意識を呼び戻すと、道路を渡り地下鉄の入り口を降りていく。

 うねうねと続く地下道は工事中の所為か、より一層狭く複雑に感じられる。日比谷線のホームを過ぎて、丸ノ内線へ向かう。やって来た電車に乗り込むと椅子に腰かけた。

 先ほどまでの景色を思い返して、ぼんやりしていると、不意にドア付近に青い目の少女が立っている。少女は私に向かって「おじちゃん、船に乗らないの?何処へ行くの」と問いかけるので「おじちゃんは、しなければならない事があるんだよ。これから池袋に行くんだよ」と答える。

 「お嬢ちゃんはどこへ行くの、一人なの?」と尋ねると、いつの間にか隣に座った人が「あんまり話していると、おかしな人に思われますよ」と言うので振り向くと、黒いコートの女性だった。「おばちゃんは、どこへ行くの?」と少女が尋ねるとその人が「おばちゃんじゃないでしょ、お姉ちゃんでしょ」と言う。

NEXT LIFE  銀座の画廊 5

 二人のやり取りを聞きながら、私はおじちゃんよりも、むしろおじいちゃんだけど、などと思う。「お嬢ちゃん、お名前は何ていうの?」「エリザ」「お母さんは一緒じゃないの?」「お母さんはいないの」と言う。

「おじちゃんは、何ていうの?」と聞くので、私は清原と答えて、あれ、そんな名前だったかなと、不思議に思う。そうだったかも知れない、と思い直し清原 真人(キヨハラ マヒト)と答える。

「あなたのお名前は?」と隣の女性に尋ねると、「木村 麗珠(キムラ レミ)です」と答えた。

「どうして、この電車に乗っているのですか」と尋ねると、「迷っているのです」と言う。「何故ここにいるのか、自分でも迷っているのです。ここに留まっていても仕方がないと、分かってはいるんです。でも、誰かに知ってもらいたいのです。私が、まだここにいることを。」

 電車が池袋に着くと「行かなければいけない用事がありますので。」と言い二人と別れて、西口へ向かって歩いた。

 池袋駅の西口公園を左に折れて、池袋警察署に着く。1週間ほど前に拾った免許証を北口の交番に届けていた。特に連絡は必要ないと告げていたのだが、もう一度拾った時の状況を詳しく聞きたいと連絡があり、その説明のために来たのだ。警察署では庶務係の人間ではなく刑事が応対した。

「拾ったのは、マンション敷地内にある自動販売機のそばの植込みの中です。時間は朝8時半頃です。拾ったその日に交番に届けました。ビトンのカード入れで中には免許証とクレジットカード類が入っていました。自分では詳しく確認していませんが、大事なものだと思い届けました。」

落とし主は、畔倉 香 住所は中野区大和町2丁目・・・。

NEXT LIFE  銀座の画廊 6

 刑事によると、登録された住所には畔倉 慶太という人物が居住していて、畔倉 香はその母親だが、随分前に失踪しているという。
免許証は既に失効しており、カード類も現在は利用停止になっている。
何故そんな人のカード入れが今更出てくるのか?

 警察は事件の可能性を疑っているようだった。
その為、第一発見者である私に詳しい状況を確認しているのだろう。
しかし、釈然としない。私は、拾得物を善意から届けただけなのだが、何か疑われているような不快感がある。

 結局、私の住所氏名と連絡先を改めて確認され、書類に署名をした。

 警察署を出ると、私は勤め先のあるマンションに向かった。そこは、首都高速5号線近くにあり問題のカード入れを拾ったマンションに隣接している4階建ての小さなマンションだ。

 1階には管理会社に関連する部屋があるが、管理人を見ることは殆どない。隣のマンションとの境界にはわずか15㎝程の隙間に笹竹が奥行10m程植えてあり、高く伸びて隣の敷地へと覆いかぶさっている。各階には1室しかないので、全部で4戸である。他の住人と顔を合わすこともまずない。会社はそのマンションの4階にあり、エレベーターがないので毎日階段を昇り降りしている。

 急な内階段の手すりはステンレスと鉄でできており唐草模様の装飾が施されている。各階の壁の窓はステンドグラスになっているのだが、外の光はあまり入らない。代わりにオレンジ色のランプが常に点灯している。

 壁には後から取り付けたと思われるエアコンやケーブルTVなどの機械類があり、工事中のような印象もある。全体に何か古びていて、しかもアンバランスで美しいとは言えないが、一方でまるで深い海の底で時を超えて生き延びようとする古代の甲冑魚のような、不気味で不可思議な廃墟の美を感じさせる。

 ここで働き始めて今年で5年目になるが、仕事の内容は殆ど電話番に近く、外出することはまずない。本社は大阪のウゴルという人材派遣の会社で、ここはその東京支店という形になっている。

 メインの業務は引っ越しのスタッフの手配だが、それ以外にも色々ある。デパートでの食材販売や、小口金融も手掛けている。それらの各種業務を4人の社員でこなしている。他の3人は外出が多く、私はほぼ内勤である。結果として電話番になっている。

 つまり、一日のほとんどを一人で、この古びた建物の中で過ごしている。

NEXT LIFE  銀座の画廊 7

 隣のマンションは10階建てで敷地も広く、駐車場も完備している。住民は様々で、半数は外国人のようである。その広い敷地の道路よりの端に自動販売機があり、植え込みは道路及びその向こう隣のマンションとの境界になっている。

 毎日そこへ行くわけではないのだが、そこで缶コーヒーを買うことが週に2、3度ある。だから、そのカード入れに気付いたのは、それがそこに存在してからそんなに日数が経過していないはずである。土日をはさんだとしても、1週間以内のことだろう。いや、隣のマンションの管理人が気付く可能性を考慮すれば、やはり1、2日以内の事だと思われる。

 と、そんなことを真剣に考えても仕方のないことで、私には何の関係もないのだから、却って藪蛇になってくだらない事件に巻き込まれることもある。それに、詳細に考えようとしても、実際のところそのカード入れを拾ったのがいつのことだったのかすらすぐには思い出せないのが現実だ。

 小人閑居して不善をなすというが、まさに今がその瀬戸際なのかもしれない。君子危うきに近寄らずとも言う。これ以上はこの件にはかかわらない方がよい。

 だが、年を取ると色んな意味で自制心がなくなる。そして、日中は話し相手、つまり暇つぶしの相手もいないのだからちょっとくらい妄想を広げても罰は当たらないかもしれない。

 そんなことをグダグダと考えていると、電話が鳴り、引っ越しスタッフの依頼が入る。

「ハイ、ありがとうございます。ウゴルです。」
「引っ越しのエイトの橋本です。至急で梱包スタッフ1名お願いします。」
「場所はどちらですか。」
「中野区大和町です。」
「何時からですか。」
「実は、午前の予定が、スタッフ1名欠員が出て遅れてしまっているんです。今すぐお願い出来ますか。」
「今ですか・・・わかりました。ちょっとだけ、折り返しさせてください。詳細をメールください。」
「ハイ、では10分以内でお願いします。」

NEXT LIFE  銀座の画廊 8

 当日の依頼はよくあることだ。スタッフ宛に一斉メールにすれば楽ではあるが、当日だと無視される恐れが強い。その為、中野区周辺のスタッフに一人ずつ電話をかけてゆく。
3人目で何とか了解を取る。

「佐藤さん、助かります。場所は中野区大和町のアパートで畔倉様です。午前の予定が遅れているので、今からすぐ向かってください。30分あれば大丈夫ですよね。詳細はメールで送ります。よろしくお願いします。」

 引っ越しのエイトに連絡を入れて、無事終了となる。
ほっとしながらパソコンに入力し始めて、『えっ』と思う。
中野区大和町の畔倉、『カード入れ』の家ではないか。

 その時、ドアのインターフォンが鳴った。
池袋署の刑事だった。
「現場の確認にきたので寄って見ました。何度か電話しましたがお出にならなかったので。」と言う。一緒に見てもらえますか、と言うので自動販売機まで案内する。

「落とし物を調べるのに現場まで確認するというのは、何かあったのですか?」と、私は疑問をストレートに投げかけてみた。

「いえ、何かあったというわけではないのですが、さっき話した通り、本人は行方不明で、息子さんとも連絡が取れないものですから。まあ、報告書に記載するためです。」

 私は、息子の引っ越しの話をすべきか、躊躇した。一市民としては知らせるべきだろうが、一方で会社に属する身としては個人情報の漏洩にもつながる。警察から正式な要請を受けているわけでもないのに、職業上知りえた情報をこちらから話すわけにもゆかない。

 理由はそれだけではない、刑事の方も情報を隠している様子だ。それが気に入らない。向こうが素直に話していれば、こちらの態度も考えるというものだ。

 知らせない理由は他にもまだある。刑事が現場に来るということは、やはり何かの事件に関わっているということだろう。だとすれば、これ以上首を突っ込むのはやめた方がよい、というまともな判断もまだかろうじて働いているからだ。

結局、引っ越しの件には触れずに帰ってもらった。

NEXT LIFE  銀座の画廊 9

 刑事が帰った後、まだお昼を食べていなかったことを思い出し、弁当でも買おうと思って歩き出した。いつもは、曲家亭という餃子屋の弁当を買うのだが、もう時間が遅いので売切れているだろうと思いコンビニへ向かう。

 突然、台風かと思う程の突風が吹いてきた。足腰の衰えからか前進することもままならず、その場で立ち止まるのが精一杯だった。ところが周りの人はいつも通りに歩いている。まるで私一人向かい風に立ち向かっているのか。これでは、コンビニまで歩くのも危険だと思い、目の前の角に見えた亞里庵という店に何とか飛び込む。

 初めて入る店だが落ち着いた雰囲気で何か高級そうにも思える。しかし、メニューを見ると餃子とチャーハンがあるのでとりあえずそれを頼んでほっとする。

 壁には、大きな額がかけられているが、馬の胸像のような絵で、緑色のたてがみにはバラの花束がかけられ、流れるように花が零れ落ちている。中華料理には似つかわしくない絵だと思いながら、その馬の何か優しく悲しげな黒い瞳が心に残る。

 ふと、目の前にまた少女が座っている。
「エリザちゃん、どうしたの?」と聞くと、
「おじちゃん、探している人は見つかった?」と聞く。
「探している人って、誰の事?」
「香ちゃん」と言う。
「それは誰?」
「探してたでしょう?さっき警察署で」
「えっ、もしかして畔倉 香?」
「そうだよ、私知ってるよ」
「どうして知ってるの?」
「前に波止場で見たことあるよ」
「いつ頃?」
「わかんない、でももう随分前だよ。
波止場に来たけど船には乗らずに帰っちゃったよ」

「エリザちゃんは、どうして波止場にいたの。」
「お母さんを待っていたの」
「どうして?」
「お母さんが、帰ってくるまで待ってて、て言ったから」
「お母さんは、帰ってきたの?」
「まだ帰ってこない」
「待ってなくていいの?」

「もう待ちくたびれちゃったから、もういいの」

「でも、一人だと心配だね、お家に帰らなくて大丈夫なの?」

「今はね、麗珠おばちゃんが遊んでくれるからいいの。
おじちゃんは心配しなくもいいよ。大丈夫だから」

餃子とチャーハンが運ばれてきて、食べているうちにエリザちゃんは消えてしまった。


NEXT LIFE  銀座の画廊 10

 お茶を飲みながら、改めて店の中を見回す。天井には一面に大きな絵が描かれている。藍色の夜空に真珠でできた星々がちりばめられ、中心には大きな赤い星がある。赤い星は2重になっていて外側が赤く、中心は黄色くなっていてどちらもその境界が滲んでぼやけている。

 左手奥にドアがあり『宮殿の間』と書かれている。それを見ていると人形のように美しく薄い金髪の巻き毛をしたボーイが近づいて来る。「ご覧になりますか」と言うので「良いのですか」と聞くと、「清原様は御招待客様ですので」と言う。

 いつ招待されたのか変だな、と思いながらも案内されて、ドアを開けてもらう。すると、そこには緑色の絨毯のように短く刈られた草原がなだらかに起伏しながら続き、真っ青な空に金色のまばゆい光が射し、左手にはヒマラヤのように神々しく巨大な雪山の連なりが見え、右手の奥には碧い湖面に太陽の光が反射する、湖と呼ぶには小さな池が見える。

 池の手前にテントがあり、その中にテーブルと椅子が見えた。
高原のように透明な空気の中でその静寂なたたずまいは、この世のものとは思えなかった。そして、その透明感は私にかつて訪れた、勿来の記憶を呼び起こさせた。

 茨城から太平洋岸を車で走り、坂道を登っていくと突然に視界が開ける。右手のはるか下方に断崖絶壁の連なりを見下ろしその先には碧く穏やかな太平洋が見える。関東から、東北へと入った途端に空気が透明度を増す。初めて見たときにはその透明感に驚かされ感動すら覚えたものだ。

 しかし、勿来(なこそ)は、古くから歌にも歌われた勿来の関を連想させ、そこが和人と蝦夷の境界だった言う。勿来は禁止の意味で「来てはならない」という意味だという。蝦夷に対して、そういったのが由来だと聞くが、しかし実際に「勿来の関」が何処にあったのかは確定されていない。その存在すら疑われているという。

 その部屋の透明な空気は私に、幻の勿来の関を連想させる。そして、ここには「来てはならない」のだと思い、招待客だというボーイの声を無視して、私はその店を去ることにした。

 店を一歩出ると同時に携帯が鳴る。会社にかかった電話が転送されているのだ。店の前で立ち止まって電話に出ると、クレーム発生のようである。会社に戻って折り返し電話しますといい、一旦電話を切る。
ふと気が付くと、店の姿はなく、あったはずの通りの角も見えなかった。

NEXT LIFE  ガネーシャ 1

会社に戻って、引っ越しのエイトに電話すると、クレームというのは畔倉の引っ越し先だった。引っ越し先で開梱したところ、ガネーシャの置物が破損していたという。玄関のシューズボックスの上に置いてあったといい、そこを梱包したのは当社のスタッフだったという。

「どうして、当社のスタッフだと分かったのですか?」

「現場の者に確認したのですが、玄関のシューズボックスを梱包したのはウゴルさんのスタッフだったというのです。」

そこへ、携帯にスタッフから電話が入る。「すみません、今スタッフから電話が入りましたので、一寸と待ってください。」

「あ、佐藤さんご苦労様。何か大変だったみたいだけど、大丈夫ですか?」

「はい、私は何も壊してないんですけどね。何か、お客様が私だって仰っているみたいで。」

「ガネーシャの置物みたいだけど、記憶にありますか?」

「いえ、そんな物は無かったと思いますけど。」

「そうですか、わかりました。今エイトさんの担当と話中なので、また状況が分かれば電話しますね。今日は、急な依頼ですみませんでした。ありがとうございました。」

「あ、今担当のスタッフから聞きましたけど、覚えがないみたいですね。まあ、とにかく私が今からお客様のところにお伺いしてみます。はい・・・結果わかればまたご連絡いたしますので、失礼いたします。」

 結局、引っ越し先の府中まで行くことになった。
引っ越し先は2箇所に分かれていた。一つは、府中市紅葉丘で、山名と言うお宅である。もう一つは、府中市白糸台で畔倉慶太の転出先である。

NEXT LIFE  ガネーシャ 2

 壊れたガネーシャが運ばれたのは、紅葉丘のほうだと聞いた。だが、まずは依頼主の畔倉慶太にお詫びし、状況を確認すべきだろうと思い、白糸台へ向かった。

 府中は、随分久しぶりだが、かつてはこの辺りを毎日のように車で走り回っていた。金融会社で働いていた20代の頃は、幾つかのグループに分かれ、どれだけ回収できるかを競っていたものだ。普通の営業会社でいえば、売り上げを競っていたわけであるが、あの時配属された場所では、売り上げではなく、督促し回収する金額を競っていたのだ。

 社会的には非難され、実際に悩むこともあった。だが、一方ではその仕事が面白く、同僚との付き合いも楽しかったし、何より、競争することがまるでゲームでの勝敗を競っているように感じられ、回収金額を増やすことが勝利であり一種の快感だった。

 府中は、中でも狭いエリアに多くの客が密集していて、回収効率の良い場所だったのだ。

 白糸台もその一つだった。思い出されるのは、夏の夜。甲州街道を走り、左手下方に高層マンション群が見えると、真っ暗な中に部屋の窓や通路の明かりが白く光って浮かび上がる様が、まるで蛍の群れのように見え、不思議な美しさを感じたことだ。

 その景色を思い出すと、またすぐある客の記憶へとつながる。その人は、高層マンションの一室に居住しながら、自営で貿易関係の仕事をしていた。部屋の中にも、色々な置物やあるいは織物、トラの毛皮や絨毯など、そして数多くの食器類、陶磁器や銀製品などがあった。

 もちろん初めのうちは、滞納することもなく順調そうに思えた。だが、金取引の詐欺まがいの事件に巻き込まれた頃から様子がおかしくなった。
最後にその人に会った時には、夜逃げの準備をしている最中だった。
既に妻子の姿はなく、部屋中に積まれた段ボールの箱の中に一人でいた。その人は、床に大の字になってひっくり返り、ポツンと呟いた。
「俺はもう駄目だ。」
私は、何も言えなかった。勿論、元気づける言葉はかけたが、夜逃げを止めることはしなかった。死なれるよりは、ましだと思ったのだ。

畔倉慶太の新しい住所は、そのマンションの近くだった。

NEXT LIFE  ガネーシャ 3

 畔倉慶太の新居は3階建ての小さなマンションの2階だった。
1DKの間取りで、以前の住所の荷物の大部分は山名の家に運んだようだ。名刺を渡して挨拶をすると、まずお詫びをした。そして、状況を確認しようとしたのだが、慶太は一方的に話し始めた。

「あれは、母の、いえ祖母から母がもらった唯一の思い出の品なんです。母には、父親がいませんでした。その父親から祖母がもらったプレゼントだったのです。母の父親が誰だったのかは今も分りません。祖母もそのことには何も触れなかったようなのです。その祖母も、早くに亡くなり、母は母方の祖父母に引き取られて育ったんです。」

 一気にそう話すと、慶太は興奮のあまり、目が充血していた。
私は、突然の話についていくことができなかったのだが、型どおりに「そうでしたか、それは大変なご苦労をなさったんですね。お辛いことと思います。」などと、意味も分からず相槌を打った。

 いずれにせよ、その置物が慶太にとって特別な意味を持っているのだということは、理解した。

「そうすると、その置物は、お母様の大事なものだったのですね。」

「はい、そうです。」

 私は、この引っ越しで、特にこのクレームで核心部分だと思われることを尋ねてみた。

「お母様は、今、いらっしゃいますか?」

そして、予想された答えが返ってきた。

「いえ、今はいません。」

「そうですか。そうしますと、その置物は今はどちらにございますか?」

「今は、紅葉丘の祖父母の家です。」

「そうでしたか、お母様は、いつ頃戻られますか?」

「わかりませんが、それが何か関係ありますか?」

 私は、しまった、と思った。つい、余計なことを聞いてしまう。
永年の金融業の癖が出てしまった。
相手の触れてほしくない所を、つい触って見たくなる。
そして、クレームをますますこじらせてしまう。

 畔倉香は、行方不明なのだからそのことを聞いてはいけないのだ。

「いいえ、申し訳ございませんでした。では、これから紅葉丘のお宅へ伺ってみますので、これで失礼致します。またご連絡を差し上げます。」

 畔倉慶太の様子から、このクレームは間違いなくこじれるだろうと予想されて、気が重くなった。

 過去の経験から、思い出の品ほど厄介なものはない。取り替えが効かないのだ。元通りに戻してほしい、と言われるのは目に見えている。だが、たいていの場合、元には戻らない。代替品か商品券になるのだが、思い入れが強いほど、納得されない場合が多い。

ともあれ、置物の状態の確認のため紅葉丘の山名家に向かった。

NEXT LIFE  ガネーシャ 4

 車に戻ると、後部座席に人影がある。ドアを開けてみると、エリザちゃんがいた。隣には麗珠さんもいる。
「エリザちゃんどうして、またいるの。麗珠さんまで。」
「香ちゃん家に行くんでしょ。ドライブしようよ。」
「ドライブって、そんな距離じゃないよ、すぐだから。でも何で,香ちゃん家って、わかるの?」
「ずっと一緒にいたよ。見てたよ。」と言う。
「私も、ドライブがしたいと思って、ほらお弁当も用意したのよ。」
などと、麗珠さんも一緒になって言う。
「まあ、じゃ多磨霊園でも一周しようか。」

この辺りは、秋には紅葉が美しい。しかし、冬の12月なので紅葉はない。代わりに、澄み切った青空が気持ちよい、ドライブも良いものだと思う。

 エリザちゃんと、麗珠さんがキャッキャと楽しそうにしているのを見れば、家族のようにも思える。もし、生まれ変わってまた出会えたら、家族になるのも良いな、などと思ってみたりする。

 私にも、家族になるかも知れないと、思った頃もあった。
12,3歳の女の子一人を連れた女性だった。
もう20年も前になる。こんな風に、家族で一緒にドライブをするのはその時以来だ。

あっという間に楽しい時間は終わる。
山名家の表札を確認して、インターフォンを押す。
初老の男性が対応する。挨拶をして、玄関を開けてもらう。

「この度は大変申し訳ございませんでした。」

「ええ、慶太から事情はお聞きになりましたか。」

「はい、お母様の思い出のお品物だったとお伺いしました。」

「あれの母親は香と言いますが、このガネーシャは、慶太にとっては祖母で、私には妹になる響子の物だったのです。」

「左様でしたか。・・・」

「響子は、かわいそうな妹でした。まだ、学生だったのに、悪い男に引っかかって、それで香は父のない子になったのです。」

ガネーシャを確認したいのだが、やはり長い話を聞かされそうだと思った。

NEXT LIFE  ガネーシャ 5

 慶太の祖母響子は、当時10歳だった香を残してこの世を去り、香は響子の実家である山名家に引き取られたが、実際に面倒を見たのは響子の兄である山名省吾とその妻であった。

「響子は、妻子持ちの波多野という男に惚れてしまい一緒に生活するようになったのです。波多野は美術品や宝飾品などの輸入販売をしていたのですが、響子はその会社で英文の翻訳事務のアルバイトと言っていました。

 騙されたんです、響子はまだ短大生で世間知らずでした。やっと20歳になったばかりなのです。妊娠が分かって、響子は結婚すると言い出しましたが、父は許しませんでした。烈火のごとく怒って、先祖伝来の日本刀を持ち出してその男の家に行くと言い出したんです。

 怒り狂う父から、母が必死でかばって響子を逃がしました。男の住まいは渋谷の神泉だと聞きましたが、それも嘘でした。後でわかったのですが、男には妻子がいたのです。それもここから目と鼻の先の白糸台のマンションでした。

 響子の妊娠が分かると、その男は下すように言ったそうです。そして、実は妻と子供がいるとも言いましたが、響子と別れるつもりもないというのです。妻子とも別れず、どういう神経をしているのか疑いましたが、男は響子のことを都合のいい愛人ぐらいに思っていたのでしょう。お金でどうにかなると思っていたのです。

 男との別れは、思ったより早くやってきました。事業でトラブルがあったらしく、債権者に追われたのです。そして、夜逃げをしようとしたのですが、当日になって債権者につかまり、逃げ損ねたようです。持ち出そうとした宝石や現金も全て処分され、文字通り身ぐるみ剥がれた状態でいなくなりました。」

NEXT LIFE  ガネーシャ 6

「その男は、今はどうしているのですか?」

「いや、そのトラブルで会社も倒産し、男とは音信不通になりました。勿論、探せば何処にいるのか分かったのかも知れませんが、私たちには探すつもりもありませんでした。響子は探そうとしたようですけど、探偵にでも頼まない限りは見つからなかったでしょう。

 それよりも、その男のためにまだ学生だった響子まで保証人にされていたのです。幸い大金ではなかったので、それは私が整理しました。
そんな状態だったので、その男と連絡とって関わりを持とうなどとは、少なくとも私は思いませんでした。

 父は響子の保証債務についても、放っておけと言い、なにも助けようとはしませんでした。
父には、先祖は武家の一族だったという誇りがありました。
その父から見れば、響子のしたことは到底受け入れ難いことだったのです。武家の娘が、妻子ある男の妾になって子供を宿した、昔なら自害すべき所だ、ぐらいに思ったのでしょう。

 響子にとっても、大事な時に自分をかばってくれなかった父が絶対に許せなかったのだと思います。父に対しては、憎しみに近い怒りを持ったようです。

 響子は結局家には戻ってきませんでした。
父には内緒で、母が響子の住まいを用意して面倒を見たようですが。
響子は、生活費を稼ぐために夜の仕事を始めました。

 渋谷の神泉と言えば近くに円山町などもあり、夜の仕事は身近にあったのでしょう。初めはクラブとかキャバレーとか分かりませんが、たぶんホステスだったのだと思います。でも、妊娠していましたから、そんなに長くは勤められなかったのだと思います。

母から聞いた話では、お客の一人が親切にしてくれたそうです。」

NEXT LIFE  ガネーシャ 7

 山名省吾の話を聞いている内に、私は妙な不快感を覚えた。確かに、波多野という男は、響子をだまして妊娠させた上、捨てたのかも知れない。しかし、だからと言って、響子はどうだったのだろう。響子の気持ちはどうだったのか、その事については誰か思い遣ったのだろうか。そして、2人の子供である香のことはどう思っているのだろう。

 香は、父親の非を一方的に聞かされて育ったのだろうか。存在しない父親を悪く言われて育つ、というのはどんな気持ちだろう。
私には、もちろん何も言う資格はないのだが、響子と香が可哀そうではないか。そして、その香の子供である慶太もまた然りである。

 少なくとも、香と慶太には確かに罪はない。生れてきた以上は、誰もが幸せに生きる権利はあるはずだ。それは経済的にだけでなく、精神的にである。
その生んだ親を自分以外の者によって貶されるというのは、私には耐えられないことである。

 育つ家庭においては、様々な事情があるのは分かる。虐待する親がいるのも知っている。そして虐待は確かに非難されるべきことだと、言うのが常識だろう。

では、生れた時から、育ててくれた人によって、その生んでくれた親を悪く言われるというのはどうなんだろう。
それは、虐待ではないのか。育ての親による虐待ではないのだろうか。

 私には、その事こそが響子と香の不幸に思えて仕様がない。
私は、早くガネーシャの修理という本題に入るべきだと思った。そうしないと、山名省吾に対する不快感で一杯になってしまいそうだからだ。

「ところで、ガネーシャの状態を確認したいのですが、拝見してもよろしいでしょうか。」

「ええ、分かりました。どうぞ、こちらです。」

奥の客間へと案内された。

NEXT LIFE  ガネーシャ 8

 客間と廊下で隔てられた向かいにも部屋があり、ドアが少し開いていた。その向こうに、車いすの老人が見えた。一瞬その老人と目が合ったような気がした。じっと、ドアの隙間からこちらを監視するかの様な、険しい目つきだった。
 
「このガネーシャの置物は波多野が、響子にプレゼントしたものだそうです。波多野が財産を失ってどこかへ行ってしまった後も、響子はこれだけは大事にしていたそうです。

ガネーシャは商売の神様で現世の利益をもたらすそうです、響子はこれをお守りにしたのでしょう。響子は香を私たちが引き取った際に、これを香に持たせてたのです。」

 ガネーシャは、左肩から右わき腹へと、刀で切られた様に綺麗に割れていた。私は、これを見た時に山名氏が語らなかったガネーシャの由来を思い出した。

 インドの神話の一つだが、シヴァとその妻パールヴァティ―の子供がガネーシャとされる。シヴァが家を留守にしている間、寂しくなったパールヴァティが自分の身体の垢や塵、泥などから作ったのがガネーシャだ。

 だからガネーシャは自分の父を知らない。そして、シヴァが家に帰ってパールヴァティの部屋に行こうとしたとき、ガネーシャは父と知らずにこれを阻んだという。怒ったシヴァは、ガネーシャの首を切り落としてしまった。

 悲しんだパールヴァティはガネーシャを生き返らせるようにシヴァに頼んだ。そして、次に通りかかった者の首を切り落としてこれをガネーシャの身体につけた。それが象だったので、ガネーシャの頭は象になったのだという。

 ガネーシャは商売の神の他に、障害を取り除く神でもあるという。
波多野からこれを贈られたとき、響子はどんな障害があっても2人で乗り越えて行こうという、波多野の気持ちだと信じたのではないか。

 少なくとも、商売繁盛だとは受け取らなかっただろう。そして、香にこれを持たせた時も、香に降りかかるであろう不幸を取り除いて欲しいと、祈るような思いだったのではないだろうか。

 山名氏は本当にその意味を知らなかったのか、それとも敢えて無視したのだろうか。そう思った時に、響子の波多野や、娘に対する本当の気持ちを知らずに育った香が、一層不憫に想えたのだ。

NEXT LIFE  ガネーシャ 9

「誰だっ!貴様は、波多野かっ!今頃何をしに来たのだ!」
突然、廊下の向こうから老人の叫ぶような怒鳴り声が聞こえた。

「あれは、父です。もう、近頃は記憶が定かではないのですよ。時々、ああやって昔のことを思い出して、怒りがよみがえる様なのです。

父さん、こちらは引っ越し会社の人で、ガネーシャを直しに来てくれたんだよ。波多野じゃないから、心配しなくて大丈夫だよ。

清原さんこちらへどうぞ、ここに響子の位牌があるのです。」

老人のいる部屋に案内されて、入るとそこには大きな仏壇があった。
先祖代々の位牌と共に、響子の位牌も祀られていた。
その位牌を、老人は毎日見て何事かを祈っているのだろうか。

 こうしてみると、父親は、本当に響子の身を案じていたのかも知れない。だとすると、波多野を赦せなかったのは、やはり響子のためを思ってなのか。

 だが、響子の妊娠が発覚してから、程なくして波多野は消えた。
きっかけは、借金だという。もし、その事がなかったら、或は響子と波多野は、障害を克服して幸福になったのだろうか。

 夜逃げに失敗しなければ、違った人生があったのだろうか。
少なくとも、その失敗によって、幸福への路の一つの可能性をつぶしたことになる。

 私は、自分が出会った白糸台のマンションの客を思い出した。
あの時、もしかすると私は、一人の人間の人生の可能性をつぶしたのかも知れない。あの男の「俺は、もうダメだ」と言いながら天井をうつろに見上げた姿が頭に浮かび、それが波多野という男と重なってしまう。

 部屋には、燃えるような赤い髪を逆立てて、赤ん坊を抱きしめる女の絵が飾られていた。

 その赤い髪の女が、絵の中から飛び出して来て、私を睨んでいる。
私に、『返せ』と言っている。声は聞こえないのだが、そういっているような気がする。何を返せばよいのだろう。私は、この女の何を奪ったというのか。あったはずの幸せだろうか。

 だが、私が一体何をしたというのか。仮にあの白糸台の男が、波多野その人だったとしても、だからと言って、私が何をしたと言うのか。
借金をしたのも、響子の前から消えたのも、責任はその男にある。
私を恨むのは、筋違いではないのか。

そうは思ってみるものの、心の奥には後味の悪さが残る。

「もしよろしかったら、線香の一本もあげて行って頂けますか。
これも何かの縁でしょうから。ガネーシャを直していただけると聞けば、響子も喜ぶでしょう。」

何か釈然としない思いはあるが、勧められるままにお焼香をした。

NEXT LIFE  ガネーシャ 10

 ガネーシャを預かって、その家を出ようとして玄関を出ると、丁度1台の車が停車した。中から男性が2人降りて来て、山中家に向かってきた。
池袋署の刑事だった。

「清原さん、どうしてここにいるのですか?」

「こちらのお宅の引っ越しの関係で来ました。」

「引っ越しですか?」

「刑事さんこそ、どうしてこちらへ来られたのですか?」

「実は、こちらは畦倉さんのご実家なんですよ。」

「そうですか、それでは私はこれで失礼しますので。」

「では清原さん、また後でお伺いしますので。失礼します。」

 まさかここで、池袋署の刑事にあうとは。
これでは、私が何かを隠しているように思われてしまう。
何も、していないのだが、小心者の私は心配になってきた。

 行方不明者を追って、実家まで尋ねるなんて、そこまで普通調べるのだろうか。きっと事件に巻き込まれたに違いない。そうすると、あのカード入れは、あそこに落としたのではなく、犯人が捨てて行ったとも考えられる。

 しかし、もし犯人が捨てたのだとしたら、あまりに無造作すぎる。防犯カメラを調べれば、誰が捨てたのかすぐ分かる事だ。では、犯人ではないとしたら、誰が捨てたのか。

 畦倉香がどこかで落としたものを、誰かが拾って、使えそうにないと思ってまた捨てた。そういう事もあるだろう。つまり、事件とは直接関係がない事もある。

 だが、そのカード入れを拾った人物が、その落とし主の実家にも出入りしていたとしたら、警察はどう思うだろう。怪しまれても仕方がないではないか。

 そうだ、あの刑事はまたあとで来ると言っていた。やはり何かを疑われたのだ。だが、畦倉香は結局どうなったのだろう。既に死んでいるのだろうか。考えたくはないが、誰かに殺されたりしたのだろうか。

 いや、もし殺人であれば、私はとっくに拘束されていてもおかしくない。
すくなとも、事情聴取はもっと厳しく受けているはずだ。とするとまだ殺人事件ではないのだろう。

一体警察は何を調べているのだろう。

 ガネーシャを修理するために、御徒町にある石材工房に向かう途中、私の頭の中は、ずっとその妄想で一杯になっていた。

NEXT LIFE  ガネーシャ 11

 御徒町の石材工房でガネーシャを見てもらった。

「これは、インド翡翠のガネーシャですね。象の額にはルビーがありますね。しかし、この割れ方は・・・。うむ、これは以前にも一度割れていますね。」

「どうしてわかるのですか?」

「この切断面をよく見てください。微妙に色が違っています。以前に接着した後です。触ってみれば少し感触が違うでしょう。」

「そう言われてみれば、そうかもしれません。」

「それに、このガネーシャは・・・以前に私が修理したものかもしれません。インド翡翠が壊れた場合、普通はこのように綺麗な切断面にはならいのですが、私は以前にこれと同じ様な切断面のガネーシャを修理したことがあります。珍しいので覚えていました。」

 工房の主人はそう言って、奥の部屋から一冊のノートを持ってきた。

「これは、私がつけている修理の記録帳なのですが、ここにありました。
もう40年近く前のことです。まだ若い女性の方で、ひどく落ち込んでいました。

 ガネーシャの首が取れてしまって、どこに行っても直してもらえないと。上野界隈を探し歩いて此処へきたのだと言ってました。

 どんな事情があったのかは知りませんが、大事な人のプレゼントだと言っていました。これが壊れたら、何かその人に悪いことが起きるのではないか、と心配されていました。

 確かに、首が取れるというのは縁起の良いことではありません。ですが、そのことを実際に心配するというのは、よっぽどなのだなと思いました。

 それで、その人にこう言ってあげたのです。
『ガネーシャは元々首が一度切られて、元の首とは違う象の首がつけられたものなのです。一度切られた首でも、またもう一度、前とは違うかもしれないけれど新しい首をつけて、やり直すことが出来るという神様なのです。

 ですから、あなたもそんなに心配せずに、仮に何か悪いことがおきたとしても、もう一度そこからやり直せるはずです。
私が、もう一度この首をつけてあげますから大丈夫ですよ。元気を出してください。』
そう話したら、その人も少しは安心した様子でした。

 でも、そのガネーシャがまたここへ来るとは。」

NEXT LIFE  ガネーシャ 12

 40年も前にここに来て、このガネーシャを修理したというのであれば、それは山名響子のことだろうか。

「これは、その時のガネーシャで間違いないのですか?」

「ええ、間違いありません。割れた傷の位置も同じです。それに、このあたりには、宝石を販売する会社は多くても、破損した石を修理するところはあまりありません。まして、このくらいの大きさになると、私の処以外には知りません。」

「そうですか、その方は名前は分かりますか?」

「山名響子と書いてますね。清原さんの依頼主の方は違いますか?」

「いえ、間違いないですね。今回の依頼主は、その方のお孫さんで畦倉慶太さんになりますけど。」

「そうですか。そうだ、その後に一年位たってからだったかな、その方からハガキが届いたのですよ。何でも子供が生まれて幸せにしていると書いてあったと思います。山名響子さんは今もお元気でしょうか?」

「いや、それが、その方は既にお亡くなりになりました。詳しいことは知りませんが、娘さんがいて、その方がこのガネーシャをもっていらしたようです。その娘さんも、今はどうしているのか良く分かりません。お孫さんが引っ越しをするので、部屋を整理したら、これが出てきたようです。」

「そうでしたか。分かりました。ではこれから修理しますが、固定するまで3時間くらい見てください。」

「分かりました、よろしくお願いします。」

 工房を出ると、ぶらぶらと周辺を散歩した。この辺りには、宝石の卸業者が多い。小売りもしているが、殆どは業者間の取引だ。そのせいか、一見さんや同業者以外はお断りの店が多い。ダイヤでいえばルース(裸石)で売られている物が多く、デパートで見る様なリングではない。だから、この工房のように素人に修理をしてくれる石屋さんも殆どないのである。

 この辺りにある石材工房と言っても、殆どは墓石など大きなものを扱う。ガネーシャの置物などは扱わない。一方で、宝石のリフォームと言えば、リングやチェーンの修理が殆どである。たまに石の研磨やリカットである。割れた石の接着は扱わない。

 この工房とは、引っ越し会社で働きだしてからの付き合いだ。陶器の修理などであれば金継ぎの業者をさがすのだが、今回の様に石の場合は、普通は修理してもらえない。だから、ここは貴重な業者で、ご主人も人徳があるのか、工房教室を兼ねていて、生徒さんでいつも賑わっている。

 そう考えると、山中響子が、ここにガネーシャを持ち込んだのも他に選択肢がなかったからだとも考えられる。東京中探しても結局、ここしかなかったのかも知れない。
40年後に、また持ち込まれたのも単なる偶然だと考えるべきだろう。

 いつの間にか、上野公園まで歩いていた。ベンチに腰掛けて、お茶でも飲もうと思っていたら、携帯が鳴った。また、刑事からだ。

NEXT LIFE  麗珠 1

 池袋署の刑事は田口と言った。田口は、山名家で山名響子と波多野という男の経緯を聞いた。だが、これと言った新事実はなかった。

 署に戻ると、警視庁公安部外事課の石井という刑事が来ていた。畦倉香のカード入れを確認しに来たのだ。何故、外事課の刑事が来るのか?外事課と言えば国際テロやスパイなどを扱う部署ではないか。田口は不審に思ったが、詳しい説明はなかった。外事課ではすべて、秘密裏に行われるからだ 。

 防犯カメラを見たいというので、マンションまで同行し、確認した。
老人が映っていた、カードが届けられた前日、深夜12時頃だ。
その後、清原がカードを拾うまでは、動きはなかった。

 署に戻り、老人の行方を追った。周辺の防犯カメラを調査し、近くのアパートにいることが分かった。アパートの管理会社で、それらしい住人を確認する。室田という老人が特定された。

 石井刑事は、早速その老人を署まで同行し、老人の身分を確認する。老人は、無戸籍で偽名を使っていた。身分を詐称していたのだ。

 石井に追及されると、本名は波多野だと言った。畦倉香との関係は否認し、その所在も知らないと主張した。だが、拾ったのが清原だと説明すると、急に興奮し清原を知っていると言い出した。

 石井刑事は、清原に会いたいと言い出した。田口は、正直うんざりしていた。上からの指示で、調べてはいるが、カード入れ一つで何故こんなに大騒ぎをするのか。
清原に会うのも何度目だ?

 肝心の畦倉香は、いまだにどこにいるのかも分からない。いや、外事課は知っているのだろう。だから、調べているのだ。畦倉香は、外事課が出てくるような人物なのか?全く、何も知らされずに動くことほど疲れることはない。

「清原さん、何度もすみません。池袋署の田口です。今から会えますか?
そうですか、上野ですか。分かりました、すぐ向かいますので、30分後に上野駅の公園口で会いましょう。」

NEXT LIFE  麗珠 2

 上野駅の公園口で刑事を待っていると、2人でやって来てその内の一人は、初めて見る顔だった。

「清原さん、挨拶が遅くなって申し訳ありません。私は、池袋署の田口と言います。こちらは、警視庁外事課の石井です。」

初めて、名刺を受け取った。

「公安の方が、どんな用件なのですか。」

「ここでは話せないので。」と、田口に案内されて、カフェの個室に入った。

「実は、防犯カメラから、カード入れを置いた人物が判明したのです。」

「そうですか、分かったんですか。で、どんな人だったんですか?」

「それが、波多野紘一と言いまして、無職の老人でした。何故、カード入れを置いたのか聞いても、『拾ったものだが、お金が入ってなかったので、あそこに捨てた』とそういうのです。」

「波多野と名乗ったのですか?」

「ええ、そう名乗りました。ご存じですか?」

「いえ、知り合いではないのですが、先程伺った山名家で波多野という名前を聞いたものですから。」

「そうなのです、我々も波多野という名前を山名家で聞いたのです。」

「でも、随分早くその老人を特定できたのですね。」

「防犯カメラを追跡したのです。すると、池袋のあのマンションの近くのアパートにいました。」

「そうすると、カード入れも近くで拾ったのですか?」

「本人は、そう主張しています。しかし、こんな事っておかしいですよね。仮に、波多野紘一と名乗る老人が、畦倉香の父親だとしたら、何十年も前に別れた娘のカード入れを拾うなんて事が、偶然とは思えません。」

「そうですね。信じられない話ですね。」

「波多野は、畦倉香のことは知らないと言っているのですか?」

「ええ、全く知らないと言っているのです。まあ、苗字も違いますから、知らなくても、そのこと自体には不思議はないのですが。」

「そうですか。」

「それと、もう一つ、波多野は清原さんを知っているというのです。」

「私を、知っているのですか?何故知っているのですか?」

「波多野は、現在は戸籍もなく、住民票もありません。アパートは知人の名義になっています。失踪宣告が出され死亡扱いになっているからです。しかし、本人が言うには、その失踪するに至った原因は清原さんにあるというのです。」

私には、波多野の主張が理解できなかった。

NEXT LIFE  麗珠 3

「波多野が言うには、以前にサラ金で借金を作り、追い詰められ夜逃げをしようとした。ところが当日になって、借金取りに見つかり、その計画がだめになった。

 その為、持ち出すはずの僅かな財産も全て取り上げられ、丸裸にされて家を追われ、一家離散の目に遭った、というのです。その借金取りが清原と名乗ったというのです。」

「私には、そんな記憶はありませんが。確かに、サラ金で働いていたことがありますので、どこかで会ったことがあるのかも知れませんが、しかし逆恨みとしか思えません。」

「はい、我々もその話を丸ごと信じているわけではありません。ただ、その相手が清原さんだった、と本人が記憶していることが問題なのです。これが偶然でしょうか?」

 確かに、偶然にしては出来すぎている。しかし、偶然ではないとすれば、一体何なのか。どんな目的があるというのか?誰かが計画しているとでもいうのだろうか。

「お話は大体わかりました。でも、結局カード入れを拾って、届けただけなのに、何故こんなに調べられなくてはいけないのですか。何か、私が罪を犯したのでしょうか?」

「いえ、そうではないのですが、ここからは石井の方から説明します。」

「清原さん、何度も警察に呼ばれて、不安を覚えていらっしゃるのはよくわかります。実は、畦倉香さんと思われる人は、今は中野の警察病院にいます。入院しているのです。」

「そうなのですか。でも、それなら一体何を調べているのですか。私に聞くことが何かあるのですか?」

「その前に、清原さんにお尋ねしたいのですが、波多野さんが以前、貿易商をしていたことはご存じですか?」

「いえ、そのようなことは知りません。というよりも、波多野さんのことをよく覚えていないのです。」

 畦倉香がいるのならば、カード入れを返して、それで解決ではないのか?
この石井という刑事は波多野のことをほじくり返して一体何がしたいのだ。
こちらを混乱させて何か企んでいるのか?

NEXT LIFE  麗珠 4

「そうですか、失礼しました。先程、波多野のアパートが知人の名義になっていると言いましたが、正確には波多野が偽名を使って室田哲男と名乗っていたのです。
室田哲男という名前で貿易商を営んでいました。どうやって資金を得たのかはまだ不明です。」

「波多野の話は分かりました。それよりも、畦倉香がいるのであれば、問題は解決ですよね。」

「それが、その女性は、2週間ほど前に何者かに襲われて、負傷しました。通りがかった人が緊急通報したので助かりましたが。しかし、病院で身分証を確認しましたが、持っていませんでした。ただ、所持品の中に定期券があり、それにはアゼクラ カオリと書いてあったのです。

 ところが、香さんの回復を待って、負傷した当時の確認を行ったところ、自分は畦倉香ではないというのです。本名は金 麗珠、通名は木村だと言いました。」

「ちょっと待ってください。それでは、畦倉香というのは誰なんですか?今は何処にいるというのですか?」

「金 麗珠の話によると,畦倉香というのは、仮の名で本名が金 麗珠だというのです。」

「仮の名とは、どういうことなのでしょうか。畦倉香という人物が他にいて、それを利用していたという事なのですか。」

「架空の名前だという事でしょう。それが、たまたま実際にいる人物と一致しただけなのか。或は、本当は畦倉香という日本名があるのに、それとは別の名前を使っていたのか。それは、まだ分かりません。」

「それにしても、私には関係ない事ですよね。そうではありませんか?」

「清原さん、まだ分かりませんか。金 麗珠、通名は木村だと言いましたよね。木村麗珠はご存知でしょう?」

私は一瞬答えに窮した。木村 麗珠は今日の午前中に銀座の画廊で初めてあった人の名前だ。だが、どう説明すればよいのか。

「この写真を見てください。」
その写真には、男性が2人写っていた。

「一人は、漫画家の山本一郎、もう一人は若い頃の清原さんではありませんか?」

「そうですが、どうしてこんな写真を?」

「これは、金 麗珠が持っていたものです。」

NEXT LIFE  麗珠 5

「金 麗珠は、この漫画家を『おじいちゃん』と呼んでいました。本当の祖父かどうかは分かりませんが。

 この人物は、1960年代には山本一郎という名前で漫画家として活動していましたが、1970年代後半から漫画家としては活動しなくなり、ネパールやチベット方面で『天の船』というスピリチュアルな団体と関り、その方面に関連するグッズの輸入販売をするようになりました。

 その時に使っていたのが、室田哲男という名前でした。この人物がこの室田哲男の名前を使ったのは1980年代迄でした。

 波多野が室田の名前を使うようになったのは、1990年代からです。
これがたまたま同じ名前だったのか、それとも関係があるのかはまだ分かりません。

問題は、清原さん、あなたです。

 あなたは、1970年代後半、渋谷のあなたの大学近くの喫茶店でこの人物と接触していましたね。当時あなたは、革命的左翼運動の地下組織『日本労農人民党』の幹部と親しく、その集会にも参加していた。その幹部の情婦が経営していたのがその喫茶店で『エクス』という名前でした。そうですね。」

石井刑事の言っていることは、殆ど事実だった。
山本一郎は、私が子供の頃から憧れていた探偵漫画を描いていた作家だった。
その山本一郎が渋谷の『エクス』という喫茶店に現れるという噂を聞いて、自分から通ったのだ。

「うーむ、昔のことなのでよく覚えていませんが、大学の近くの喫茶店というのは、私の大学の先輩の経営する喫茶店だったと思います。そこで、ある漫画家という人と会ったことはあります。

 確か、チベットか何かの曼荼羅の絵のバッジを作って売れば儲かる、そんな話だったような気がします。でも、何故そんな昔の私のことまでよく調べられますね。」

「別に、あなたに何かの罪があるわけではないのです。しかし、あなたは当時、無政府主義者の団体リベルテールにも関与していましたね。機関紙にあなた名義の論文も投稿もされていた。更に、1990年代には反社会的な宗教団体とも関わっていた。そうですよね。」

これは、何の取り調べなのか?
まるで私の過去を暴き立てられているような錯覚を覚えた。

NEXT LIFE  麗珠 6

石井刑事は私の過去を執拗に暴いていく。公安のやり方はいつもこうだ。学生の頃を思い出して、うんざりした気分になった。

「ええ、確かにそんなこともありました。しかし、最後の宗教団体との関りはありませんよ。あれは、私が駅で定期券入れを拾い、その中にテロを起こした宗教団体の教祖の名刺が入っていただけだった。なのに、大げさに扱われ、取り調べを受けることになった。まったくの冤罪ですよ。」

「そういう反社会的な団体での活動経歴は、公安で記録されるのです。つまり、今後も何らかのテロ事件や、反社会的な団体の起こした事件があれば、あなたが関与を疑われたり、あるいは情報の提供を求められたりすることがあるのです。」

この最後の言い方は、私には脅しのように聞こえた。

「結局、私にどうしろというのですか?」

「清原さん、落ち着いてください。脅しているわけではありません。できれば協力をお願いしたのです。」

「協力とは、どんな協力ですか?」

「木村麗珠さんの身元引受人になっていただきたいのです。」

身元引受人とは、どういう意味だ。彼女が何者かも分からないのに、どうやって責任を取るのだ。

「身元引受人ならば、山名省吾さんがふさわしいのではないですか?」

「彼女が畦倉香ではないと主張しているので、現時点では難しいのです。しかし、彼女は住所も不定で、事件に巻きこまれた可能性がある以上、放置するわけにもいかないのです。」

「分かりました。ですが、まず本人の状態を確認してから決めさせていただきますが。宜しいですね。」

石井刑事の要望に従って、まずは中野の病院へ向かった。

病室は311号室だった。名前は、アゼクラ カオリと木村麗珠が併記してあった。

刑事と別れ、一人で部屋のドアを開けた。
部屋は、壁一面に花が飾られ、床も花びらが敷き詰められており、甘い花の香りが満ちていた。
ベッドには女性が横たわっていた。その女性の周りも花で覆われて、まるで棺のようにも見えた。老人が一人、ベッドのわきに腰掛けていた。

その老人が、私の顔を見て、にっこり微笑んだ。

NEXT LIFE  麗珠 7

微笑む老人のその瞳は外側が黄金色で中心は明るいエメラルドのように輝いていた。
その不思議な輝きを見た刹那、私の全身がその瞳に吸い込まれていった。

周囲はすべて黄金に輝く柔らかな壁となり、その中を私は漂うように浮かんでいた。
時々、言葉のような音が響き、それに合わせるかのように柔らかな壁が動き、同時に私は壁に包まれて少しずつゆっくりと回転するのだ。

声は、穏やかで歌う様に優しく響く。言葉を理解することは出来ないのだが、聞いていると、心は落ち着いてゆく。

ゆっくりとしたその旋律は、まるでゆりかごの様に私の体を揺らす。
黄金の壁はやがて、輝く太陽に変わりその周りを青い空が広がっている。

気が付くと、一層の船に乗り、仰向けになって空を仰いでいる。太陽がまばゆく、目がくらむ。身体を起こし周囲を見ると、葦の原が広がり私の乗った船は、大きな湖の岸辺に浮かんでいる。

やがて、船はゆっくりと波間を漂う。声が聞こえる。異国の言葉で、理解はできないのだが、祈りをささげる人々が見える。

船は、大河をさかのぼり、高原へと向かう。また別の人々の姿が見える。ヤギやロバを追う声が聞こえる。船は、海のような大きな湖を渡り、また別の河を遡る。

幾つもの山を越え、高原を越え、人々の賑わう市場を越え、また平野を越え、大河の河口へと行き着く。これは、揚子江か。見覚えのある人々の顔になる。

海へと出ると、島々を越え、黒潮に乗り、やがてまた大きな河口に出る。
2つの神社が見える。葦原の中に聳える鳥居が朱く光る。
奥の方の神社で、一人の巫女が生まれる。

巫女は美しく育ち、成長すると、軍勢を従え、馬を率いて船に乗る。多くの舟が馬を乗せ、出発する。一人の武人が鹿の角を持った兜をかぶり、軍勢を先導する。

旅の途中で、巫女が倒れた。軍勢は、引き返した。

ベッドに横たわっていた女性は、身体を起こし、私を見ていた。

NEXT LIFE  麗珠 8

ベッドの脇にいる老人は、石材工房の主人に見えたのだが、はっきりしない。
どなたですかと尋ねると「山本一郎ですよ」と声が聞こえる。
「久しぶりですね、と声が聞こえるので「40年ぶりですね。どうしてここにいらっしゃるのですか。」と尋ねた。

「あなたを招待したのですが、なかなか御出でにならないので、伺いました。」という。

老人は相変わらずにこにこしている、声が頭の中で響いている。

「ここは何処なのでしょうか。」

「天の船ですよ。」

「天の船とは、何なのですか?」

「棺の中に入れる船のことです。冥界へ行く船なのです。」

「では、私はもう死んだのですか?」

「いいえ、死んではいません。ですが、あなたにお願いがあったので、私が来たのです。」

「お願いとは、何でしょうか?」

「私は以前、あなたにも話したことがあると思いますが、ネパールで『天の船』という組織を知りました。そして、その組織の日本における、代表を務めたのです。この組織は、スピリチュアルなものですので、政治的に何かをするわけではありませんでした。

 しかし、この組織を政治的につまり経済的に利用しようとする者がいました。香はそのスピリチュアルな才能によって、『神の使い』となったのですが、それを不都合と感じる者たちによって、命を狙われたのです。

 今、香の魂は船の中にあります。肉体はまだ地上にありますが。『神の使い』としての香の役割を引き継ぐ者が必要なのですが、その者はまだ現れていません。
それで、新しい『神の使い』が現れるまでの間、麗珠の魂が香の肉体にやどることになったのです。

その間、あなたに麗珠の傍にいて欲しいのです。」

NEXT LIFE  麗珠 9

 私は、病室を出ると、石井刑事に身元引受人になる事を承諾したと伝え、木村麗珠と共にその日は御徒町の石材工房へ向かった。そして、出来上がったガネーシャを持って工房を出た。

 それから、2人で銀座の画廊に行き、そこから波止場へ向かった。
波止場に着くと、エリザちゃんが待って居た。

「これから、船に乗るんだね。」

「そうだよ、エリザちゃんも乗るの?」

「うん、私も一緒に行く。」

「じゃあ、みんなで一緒に行こう。ところで、どこに行くの?」

「赤い星、あそこに光ってる星。」

「あの星は何なの?」

麗珠が答えた。「あの星が新しい人生の星。」

 船に乗って、出発した。


1980年

「社長、また山川という方から電話です。もう、朝から3回目です。いい加減、出てくれませんか?」

「だめだ、外出中だと言ってくれ。今日は、ずっと戻らないと言うのだ。」

「分かりました・・・。すみません、今日は一日不在で戻りません。外出先は、わたくしではわかりませんので、・・・ハイ、お電話があったことは記録しておきますので、ハイ、失礼いたします。」

 山名響子は、波多野の事務所で、受付の電話を取っていた。かかってくるのは、ガラの悪い声の男たちからばかりだった。その男たちの中に私もいた。

 ここが赤い星だというが、別に変わったことは無い。前とほぼ同じ人生を生きている。変わったことと言えば、前の続きではなく、香が誕生したところから始まっていることだ。と言っても、まだ生まれてはいない、おなかの中だが。

 どういうわけか、麗珠の意識と時々重なってしまう。ずっと傍にいるとはこういう事なのか。麗珠では無いが、麗珠の感覚を見ているのか?どうにも居心地が悪い。

 波多野が外出した。「響子、ちょっと出かけてくる。7時には戻ってくるから、それから食事に行こう。それまで待っててくれ。じゃあ、行ってくる。」

 波多野は近頃、外出が多い。仕事なのか?金策なのか?毎日のようにかかってくる電話は、ほぼ全て督促の電話だろう。仕事があるようには思えない。

この状態では、会社がつぶれても仕方がないだろう。何とかならないものか。

NEXT LIFE  麗珠 10

 会社の帰りに、自宅の最寄りの駅近くの喫茶店によって一服する。ほぼこれが日課だ。いつものように窓際の席でコーヒーを飲んでいると、向かいの席に男が座る。
何だ?カチンときて顔を見ると、知った顔だった。

「清原さん、久しぶりですね。」

「田口刑事、どうしてあなたが・・・」

「どうしてここにいるのか?って、不思議ですよね。あなたのことを、あの病院を出てからずっと尾行していたんですよ。勿論、石井刑事の指示ですけどね。」

「あなたは・・・あの波止場に来たのですか?」

「ええ、行きましたよ。」

「どうやって、あそこに行くことが出来たのですか?」

「ずっと、あなたを尾行したと言っているでしょう。銀座の画廊にも行きましたよ。そしたら、いきなりあんな波止場に着いて、しかも船に乗るものだから、いったいどうなる事かと思いましたけどね。」

「でも、信じられない。今どこにいるか、あなたは分かっていますか?」

「何度も言わせないで下さいよ。まあ、清原さんが疑うのも無理はないですけどね。

 実は、私も今の状況が信じられないのです。石井刑事に、報告しようと思っても、ここには石井刑事は存在しないのですよ。驚きましたよ。

 尤も、今が1980年だとすれば、石井刑事が存在しないのも当然ではありますけどね。初めは、公安が何か知ってて隠しているのか、とも思いましたけど。

 でも、私自身の周りの状況を見ると、昔に戻っている。こいつは一体どうゆう事か、と不安でしたよ。『清原さんは、どう思っているのか』とね、そう思って話しかけた次第です。」

「そうでしたか・・・では、あなたを信頼して話しますけど、実は、私もあなたと同じです。この状況にまだ対応できていないのです。」

 どうやら、田口刑事は、私と同じようにこの『新しい人生の星』にそうとは知らずに来てしまったようだ。仲間、というわけではないが、少しホッとした。

NEXT LIFE  新しい人生 1

 田口刑事は、他の事件を扱う傍ら、内密に私のマークもしなければならず、同僚からはいつもどこかでサボっていると思われているらしい。近くの居酒屋で、飲みながら愚痴を聞く羽目になった。

「まあ、どうせダメ刑事ですからね。今更、評価が欲しいわけでもないけど。しかしね、肝腎の石井刑事が居ないわけですからね、愚痴もこぼしたくなりますよ。」

 酔いも回ってきたせいか、饒舌になってきた。

「今扱ってる事件は、全部俺からすれば過去の事件なんですよ。以前に取り扱って、犯人も分かっているし、どれが迷宮入りになるのかも、全部ね分かっているんですよ。

 ですからね、本当なら全部俺がね、解決してもおかしくないんですよ。ところがですよ、誰も俺の話を聞かないわけだ。それでいつの間にか、蚊帳の外に置かれちゃって、挙句に、最初に俺が言ったとおりに事件は解決するんですよ。手柄は他の奴のものですよ。これって、おかしくないですか?

 もしも我々が未来から来たとするならばですよ、答えを知っていて不思議はないし、それを解決できるわけでしょ。ところが、事態は、そうはならない。誰も、俺の言うことを信用しないんですよ。どうなっているの?清原さん、分かりますか?」

 田口刑事の話すことは、私もこちらに来てから感じていたことだ。この先はこうなりますよ、と正しい情報を伝えても、まるで相手にされない。それどころか言っている通りの結果になったりすると、却って気味悪がられ反発を買い益々悪循環となってしまう。

「私も全く同じです。私も、扱っている顧客がどうなるのか、分かっているのに、事態は変わらない。誰に言ってもまともに伝わらない。まるで、人形を相手にしているみたいなんです。」

「そうでしょう?これって清原さんが言ってた『新しい人生』なんですかねぇ。」

「私も、その点は実に不思議に思っています。
ところで、田口さんに一つお願いがあるんですけど。」

NEXT LIFE  新しい人生 2

 周囲から反発され、孤立することも問題だが、私にはもっと優先すべきことがあった。私としては、波多野が気にかかっていた。何故、私の所為で失踪することになったというのか? 私の記憶とは違っている。

「何ですか?」

「波多野紘一が、失踪するのは、もう間もなくだと思うのですが、その事については石井刑事は何か言っていませんでしたか?」

「いやぁ、波多野についてはただ室田の名前を使っていたとしか聞いていませんねぇ。そこから、山本一郎とのつながりや、密貿易の疑いが持たれているだけですよ。それ以前の失踪については特に関心はなさそうでしたよ。」

「そこを調べてもらいたいのですよ。私の所為にされるのは、どうも納得がいかないのです。」

「それは、自分で調べればわかるのじゃないですか?サラ金の客なら色々と情報も調べられるでしょう?」

「そうでしたね、自分で調べてみますね。でも、田口さんも協力して下さい。私をマークするよりも、波多野をマークしてもらいたいのですよ。波多野を追い詰めた奴が誰かを知る必要があるのです。」

「じゃあ、分かりましたよ。但し、条件があります。」

「何ですか?」

「これから、もう一軒付き合って下さい。」

「いや、田口さん今からは、ちょっと、もう十分飲んだでしょう?」

「いや、行きつけのスナックがあるんで、そこで飲みなおしましょう。」

 そのスナックは神泉にあるという。私のアパートは吉祥寺だから、また渋谷に戻るのは辛い。だが結局、その条件を飲むことにした。

 田口の今の職場は渋谷だという。そこから神泉にあるアパートまで歩いて帰るのだが、月に何度かそのスナックによって飲むことがあるという。

 ルナという名前のそのスナックは、神泉の駅から近い路地にあった。
店の前には小さな丸いテーブルが置かれて、椅子が1脚だけあった。
店の屋上近くからライトが照らされ、入り口の手前の地面に、白い楕円が浮かびその中にLUNAという文字がピンク色に映し出されていた。

NEXT LIFE  新しい人生 3

「あら、鈴木さんいらっしゃい。おっ、今日は新人さんを連れてきてくれたの?ありがとう。」

「あぁっと、まあ・・・そんなところかな。取り敢えず、水割り頼むよ。」

「新人さんは? 水割りでいいの?」

「はい、水割りで。」

「ねえ、鈴木さん、こちらの方は何てお呼びしたらいいのかしら?」

「あの、清原です。」

「清原さんって、もしかして本名?」

「はい、そうですが?」

「じゃあ、kさんて呼びますね。私は、ゆかりです。これからもよろしくお願いしますね。」

 店のカウンターに座って注文を頼んだ。田口刑事はここでは鈴木と名乗っているようだ。職業柄、こんな場所でも身分を知られてはいけないのだろう。
私はkと呼ばれることになった。

 細長い店は、入口の左手に4人用のBOX席があり、右手の壁際には、2人用のテーブル席が2組並んでいた。BOX席から少し間をおいて、店の左手にカウンターがあり、棚には洋酒や日本酒のボトルが並べてある。

「今日はね、こっちも新人さんがいるのよね。梢ちゃんていうのだけど、こういう仕事は初めてだっていうからよろしくね。」

「梢です、よろしくお願いします。」

 大きな丸いトンボ眼鏡をかけた髪の長い子だった。
ママはいかにもベテラン風のテキパキした感じの女性だが年齢は不明だ。30代から40代の間か?しかし、50代の場合もある、女性の年齢は分からない。こういう世界では猶更だ。

「梢ちゃん、1曲歌おう。デュエット曲お願いしまぁす。」

 田口は既に酔っている。無理もないか、今までの緊張から解放されたのだろう。この星に来てからは、気を許せる相手はいなかったはずだ。

 それは、私も同じだ。何を言っても話が通じない人形相手に、決まった会話を繰り返すだけだ。過去と違う言動や、行動をとると不審な表情を露骨に示される。

 考えても見てほしい、40年も前と同じ言動、行動、リアクションを取れるだろうか。過去と同じ行動、同じ失敗をもう一度繰り返す、ということがどれほどの苦痛か。

 40年の歳月は、物の考え方や、感じ方、そして行動様式、表現などを変える。つまり、別の人間になったといってもよいのだ。 
40年前の自分をもう一度演じるというのは、かなりきつい作業だ。

 それでも、それを演じるのは、そうしなければ排除されるという恐怖があるからだが、もう一つ別の理由もある。つまり、この星の中に、畔倉香を襲った犯人がいるのではないか、という疑いである。

 その犯人から、香を守るためにここに来ていることを、悟られないように警戒しているためでもあるのだ。

NEXT LIFE  新しい人生 4

 水割りを飲んで、女の子と歌って、はしゃいでいる内にすっかり酔ってしまった。店内には、3人連れの会社員風のグループがいた。トイレに行くために彼らの脇を通り抜ける。

 一瞬、そのうちの一人と目が合った。何処かで見た顔だ。だが、思い出せない。向こうもこちらを見たということは、こちらを知っている可能性もある。それも考えすぎか、トイレに入っているうちに忘れてしまった。

 席に戻ると、入れ替わりに鈴木(田口刑事)がトイレに立った。
3人連れのうちの一人が立ち上がって、一曲歌い始めた。
暫くして鈴木がトイレから戻る時に、少しよろけて、歌っている男にぶつかった。

「何やってんだお前!?」とその若い男がマイクを持ったまま怒鳴った。
大きな声が反響し、騒然とした雰囲気になる。

 鈴木は、直ぐに謝ったのだが、酔っているせいか「あ、どーも、ゴメン、ゴメン。」と軽い感じである。男は納得しない。ゆかりママが、直ぐに間に入り「ごめんなさいね。クリーニング代は私が持ちますので、どうか勘弁してください。」と男をなだめるのだが、まだおさまらない様子だ。

 すると、先ほど私と目が合ったリーダー格風の男が立ち上がり「ママもああいっているのだから、これ以上騒ぐな。」と言い、若い男を席に連れ戻した。

「山川さん、本当にすみません。これで気分を直してください。」と、ママがバーボンのニューボトルを開けた。

「いいのか、これ飲んじゃって?」

「はい、大丈夫ですよ、お代は鈴木さんから頂戴しますから。ね、鈴木さん?」

 鈴木は、口をゆがめて「いいですよ、すみませんでした。」と、不服そうに謝った。

 3人組が帰った後、鈴木に「先刻はどうしたんですか?いくら何でも酔いすぎですよね。」と聞いた。

 すると、予想外の返事が返ってきた。

「kさんだから話しますけどね、あいつらは金取引の詐欺グループの一味なんですよ。山川っていうのがリーダー格なんですけどね。まぁなかなか尻尾をつかめなくてね。」

「そうなんですか?でも、そんな事件を追っているのですか?」

「いやぁ、自分の担当じゃないんですけどね。ただこの先、あいつらの為に苦しむ人が大勢出るのが分かっていますからね。何とか未然に防げないかなと、つい思ったんですよ。」

「防ぐって、どうするつもりだったのですか?」

NEXT LIFE  新しい人生 5

 鈴木は、真顔になって話し始めた。

「実は、今日kさんに思い切って声をかけてみて、その後、色々話したりして、この店まで誘ってみたわけですけど。そしたら、気が付いたんですよ。今までは、こんな事は無かった。過去とは違うことが起きているんだってね。

 そして、この店で、梢という子に会った。この子は、今まで過去の自分の人生で出会った事がない子なんです。今日初めて出会った子なんですよ。分かりますか?

 今までは、他人に情報を伝えて、何かを変えようとしていたんですけど、うまくいかなかった。でもね、自分自身の考えや行動を変えてみることで、今までと違う結果が起きるんじゃないかと、気づいたんですよ。」

 それは、確かにそうかもしれない。私にとっても、今日の出来事や、出会った人は、初めての人なのだ。過去とは明らかに違っている。

「それで、あの3人連れなんですがね、あそこで敢えてトラブルを起こしてみたら、何か違う展開が起きるかな、と思ったんですよ。

 仮に、あそこで私が殴られでもしたら、傷害事件ですよね。そうなれば傷害で引っ張ってそこから、詐欺事件にも解決の糸口になるかもしれないとね。

まあ、猿の浅知恵でしたけどね。」

「そうだったんですか。そんなことを考えていたとは、まったく思いも及びませんでした。でも、傷害事件になったら、ご自分もまずいことになるのじゃないですか?」

「それは、承知の上ですよ。どうせダメ刑事ですから、どうとでもなりますよ。」

 意外に考えているのだと思い、少し見直したのである。

「それにしても、山川と言いましたっけ?あのリーダー風の男。」

「ええ、そうですけど、それがどうかしましたか?」

「何処かで、見たような気がするんですよねぇ。思い出せないのだけど、会社は何と言う会社ですか?」

「安宅商事ですよ。知りませんか?例の金取引の詐欺事件の会社ですよ。」

 そうだ、そう言えばその事件があってから、白糸台のマンションの男は夜逃げする羽目になったのだ。

NEXT LIFE  新しい人生 6

 会社で、山川のデータを確認してみた。

 山川聡 住所は調布市国領。勤務先は安宅商事渋谷支店。免許証と、社会保険証を持参。50万の融資。最新の情報では他社借りれと合わせて10社で400万の借り入れとなっている。支払い履歴は2回、過去の延滞はない。期日通りに約定額を入金している。しかし、今回3回目の期日を3日過ぎている。紹介者欄に友人、波多野と記入されている。

 波多野のデータを確認する。だが、波多野の該当はなかった。白糸台の住所で調べると、1件該当する。金慶国という名で、妻は全春華、子供が一人。外国人登録証を持参している。貴金属、絵画など高級雑貨の輸入販売となっている。
約半年の取引だが、支払い履歴は3回しかない。今月の予定日から10日過ぎている。

 この金慶国が、波多野なのかもしれない。
 会社に電話をかけると、受付の女性が出る。

「金慶国さんは、いらっしゃますか?」

「社長は今、外出中です。本日は1日不在となりますので、ご用件があれば残しておきます。」という。

「それでは、波多野さんをお願いします。」

女性は、暫く無言になる。相談しているのだろう。

「どちら様でしょうか?」

「山川さんの件だと伝えてください。」試しに、山川の名前を出してみた。
すると、何も言わずに、男に代わる。

「山川がどうかしましたか?」

「波多野さんですね。」

「だから、山川がどうしたのか、聞いてるんだよ。」

怒っているようだ。

「あなた、金慶国さんですね。普段は、波多野という名前を使っているんですか?」

「そうだよ。だから、あんた誰なんだ?何の用があって電話しているんだ?」

「渋谷クレジットの清原です。金慶国さんの支払いが遅れているので電話しました。なので、色々調べさせてもらいましたよ。波多野という名前で山川さんを紹介されましたね。」

「それが、何か問題があるのか。」

 そのことに、特に問題はない。だが、これから問題が起きるのだ。

 波多野が、山川を紹介したということは、名義貸しの可能性もある。
つまり、実際には波多野が借り入れを山川に頼んだということだ。その場合、波多野が山川分の支払いを怠れば、当然に山川は波多野に請求するだろう。しかも、山川の借り入れは10社400万にまで膨らんでいる。全部が名義貸しではないにせよ、2人とも行き詰まっているだろう。
2人の間でトラブルが起きても不思議はない。

「いいえ、まずは金慶国さんのお支払いについてです。今日支払っていただけますか。」

「分かったよ、今日入れとくから。もう電話かけてくるな。」
電話はガチャンと切られた。

NEXT LIFE  新しい人生 7

 波多野が、清原からの電話を切ると、しばらくして山川から電話がかかってきた。

「社長、山川さんからです。」

「分かった、つないでくれ。」

「波多野さん、クレジットの支払いどうなっているんだ?こっちに電話がバンバンかかってくるんだ。」

「分かってる、直ぐ払うから大丈夫だよ、心配するな。渋谷クレジットか?」

「どこだか知らないけど、とにかくしつっこいんだよ。ちゃんと払っとけよな。それと、金塊の現物はどうなってる。教団本部が、早く持って来いとうるさいんだ。」

「大丈夫だよ、心配性だな。今月中には持っていくから。」

 全く、うるさい奴だ。それにしても、渋谷クレジットの清原か、気に入らない奴だ。俺と、山川の関係を疑ってやがる。サラ金の支払いなんかどうでもいいが、あれこれ嗅ぎまわられると、面倒だ。

 安宅商事で、山川は波多野への電話を切ると、部下を呼んだ。

「波多野は、多分もうだめだ。こっちに請求がくるくらいだから、自分の支払いもできてないだろう。金塊も用意できないだろう。月末までは、様子を見るが、いざという時には消えてもらわないと。お前ら、あいつを監視していろ。変な動きがあればすぐに知らせろ、いいな。」

 部下にそう指示すると、今度は上司に電話を掛けた。

「渋谷支店の山川です。河野本部長をお願いします。」

「河野だ。山川どうした?何かいい報告でもあるのか?」

「いえ、本部長実は、ちょっとまずいことになりそうなので相談なのですが。」

「何だ、話してみろ。」

「渋谷にある、アーリヤ商会なんですが、資金繰りがうまくいっておらず、約束の金塊が手に入りそうにもないんです。」

「それで?」

「それで、どうしたものかと思い相談なんです。」

「お前は、どうしたいんだ?」

「波多野という男がやっている会社ですが、その波多野がサラ金で首が回らなくなっているんです。で、そのサラ金からこっちにまで請求の電話がかかってくる始末で。」

「だから、何だ?どうしたいのか、結論を言え。」

「その波多野が追い詰められて、うちとの関係を色々バラしかねないので、消えてもらおうかと思っているんです。」

「何だ?知られてまずい関係でもあるのか?」

「まあ、金塊の件がありますので。」

「お前が、まずいと思っているのなら、消えてもらえばいいだろう。
但し、教団本部には知られないようにしろ。いいな。」

「分かりました。その時には、本部長にもお力をお借りしたいと思いますので、宜しくお願いします。」

「分かった、その時には連絡しろ。」

 山川は、波多野を消す準備を始めた。

NEXT LIFE  新しい人生 8

 その後も、波多野からの支払いがないまま、2週間経過した。本来の支払日が毎月3日なので、既に24日間の遅れになっている。
27日の夜になって、波多野の自宅を訪問した。過去と同じならば、波多野は夜逃げの準備をしているはずである。

 案の定、部屋の中は荷造りした箱で一杯である。

「あんたが、清原か。しつっこいねぇ。俺はこの通りもうお手上げだ。もうダメなんだよ。」そういうと、波多野はひっくり返って天井を見上げた。

「諦めないで、頑張りなよ。奥さんや、子供もいるんでしょ。」

「もう誰もいないよ。とっくに出てったんだよ。」

 波多野は妻子が出ていったといっているが、おそらく逃がしたのだろう。『一応、妻と子供は先に逃がして、守ろうとしたんだな。』と、私は思った。

 今は手持ちも全くないというので、引き上げることにした。ここまでは、過去と同じだ。ここから、どうなるのかを確かめる必要がある。そう思い、駐車場に戻ると、車の中から様子を見ることにした。おそらく鈴木(田口刑事)も何処かにいることだろう。

 30分ほどで、1台のトラックが来た。作業員が2人降りて、エレベーターで11階にある波多野の部屋に向かう。すると、駐車場から別の作業員風の2人が出てきて、やはりエレベーターに乗り11階へ向かった。

 波多野と作業員2人が乗用車に乗り込み、他の作業員2人がトラックに荷物を運んで出発した。後をつけるが、トラックと乗用車は、甲州街道を東と西に分かれて行った。トラックは、東へ、波多野を乗せた乗用車は西へ向かった。一旦は、西に向かった乗用車を追ってみたが、国立から中央高速に乗ったため、そこで追跡はあきらめた。

 国立インターの近くに車を止めて、もう一度白糸台へ戻ろうかと考えていた時、一台の車が、クラクションを鳴らして横に止まった。

鈴木だった。鈴木もやはり、追ってきていたのだろう。

「kさん、あの乗用車は山川の手下の車だ。」

鈴木は、車から降りるとそう言ってタバコに火をつけた。

NEXT LIFE  新しい人生 9

「鈴木さんは、あの車の行き先が分かっているんですか?」

「いやぁ、それは分からないんだけど、ただ此処の所ずっと、あの車が止まっていたんだ。山川に監視されていたんだろう。多分もう戻ってくることはないよ。」

「そうですか、やはりここで行方不明になってしまうんですね。トラックが、東へ向かったのは、金目になるものを処分するためですね。」

「そうだろうね、山川が確認して換金するのだろうね。」

「ところで、鈴木さん。この前あのルナで山川ともめたとき、ゆかりママが助けてくれたけど、どうしてあんなに親切だったんですか?ただのお客とママの関係にしては不自然ですよね。」

「ゆかりさんは、俺の先輩の知り合いだったんだ。先輩に紹介されてあそこに通うようになったんだよ。」

「その先輩は、ゆかりママと付き合っているんですか?」

「以前はね・・・。今は、もう先輩はいないんだよ。死んじゃってね。」

「えっ・・・」

少しの間、言葉が出なかった。

「どうして、病気とか事故とかで亡くなられたんですか?」

「まあ、事故といえば事故だ。でも、不自然だったんだ。」

鈴木は、少し怒ったような、苦しそうな表情で、2本目のたばこにまた火をつけた。

「何があったんですか?」

「先輩は、当時ある事件を追っていたんだけど、その途中で亡くなったんだ。」

「そのある事件とは?」

「ゆかりさんの弟がある宗教団体に入って、連絡が取れなくなったんだ。それで、先輩がその行方を捜していたんだけど、それは正規の捜査ではないからね。会社には内緒ってやつだ。

 その途中で、ビルの階段から転落死した。アルコールの反応もあったので、酔って足を踏み外した、という形になったけど。休みの日でもないのに何故、関係のないビルにいたのかが問題になって、結局うやむやにされたんだよ。」

「もしかすると、殺されたかもしれない、ということですか?」

「俺はそうじゃないかと思っているよ。」

「そうですか。じゃあ、ゆかりさんは鈴木さんが刑事だってわかっていたんですね。だから、事件を起こさないようにこの前は、かばっていたんですね。」

「まあ、そういうことだ。」

「ふうん、そうですか。で、鈴木さんは、今もあそこに通っているのは何故ですか?先輩の為ですか?」

「うむ、今もゆかりさんの弟は行方不明のままだ。ゆかりさんにしてみれば、大事な人を2人も奪われたんだよ。可哀そうじゃないか。だから俺も、先輩の跡を継いで、弟さんを探しているんだよ。」

「ふうん、そういうことですか。じゃあ、これから行きますか、ルナへ。この先どうするのかも、話さなきゃいけないし。」

NEXT LIFE  新しい人生 10

 中央高速を西へと走る車の中で、波多野は殺されるかもしれないと不安だった。

「どこまで行くんだ?殺すんだったら、さっさと殺してくれ。命乞いはしない。」

「命を取るとは言っていませんよ。ただ、今後は山の中でおとなしくしていろ、とそう言っているだけですよ。もうすぐ着きますから。」

  相模湖インターで高速を降りると、さらに国道20号を山梨方面へ向かい、上野原についた。上野原の街を抜けて北へ向かい山の中に入ってゆく。

 甲州建設という看板の前で止まる。道路に面して砂利を敷いた広い敷地があり、プレハブの事務所がたっている。

 事務所に入ると、大柄で、浅黒く日焼けした50代くらいの男がいた。

「遠藤社長お世話になります。山川から聞いていると思いますが、この男です。金慶国と言います。」

「分かった、話は聞いている。後は、こちらでやっておくから大丈夫だ。安心しろと言っておいてくれ。」

「はい、分かりました。それでは宜しくお願いします。波多野さん、あんたここから逃げようなんて思うなよ。あんたの行動は監視されているからな。」

作業員風の男2人はそのまま帰っていった。

「遠藤さん、ここは何処なんですか?私はこれからどうなるんですか?」

「金さん、あんたはこれから、ここで働くことになる。まあ、事務仕事を任せたいところだけど、人目については困るので、当面は建設の現場作業になる。それから、波多野という名前はもう捨てなきゃだめだ。金慶国という名前も使ってはいけない。何か好きな名前はあるかい?」

「名前ですか?そうですねぇ、じゃあ川南一作でいいですか?」

「ああ、いいよ。でも、何故その名前がいいんだ?」

「昔、お世話になった人の名前です。」

「そうか、分かった。じゃあ、これからは川南一作だ。俺は遠藤宏だ、ここの社長をやっている。あんたはこれから、俺の会社の従業員だ。住まいは、プレハブの寮だが、一応個室になっている。宜しくな。」

「あ、はい、宜しくお願いします。」

――― 全く、とんでもないところに来たもんだ。建設現場の寮って、つまり飯場ってことだよな。これじゃ、いつ殺されるかわかったもんじゃない。だが、逃げ出そうにも、一体ここが、どこなのかもわからないし。参ったな。

 結局、波多野はここで川南として当面は生き抜くことを覚悟した。

NEXT LIFE  新しい人生 11

 波多野の荷物を載せたトラックは、甲州街道を東へ走り、やがて渋谷にある安宅商事渋谷支店に到着した。山川は、荷物を確認し、貴金属品などの換金できそうなものを選び取ると、残りの美術品などは、部下に渡して処分させた。

「結局、金塊なんか何処にも無いじゃないか。波多野の野郎!・・・しかし河野本部長の言う通りにするしかないのか。」

 山川はこれより前、金塊が手に入らなかった場合の対応について、河野本部長に尋ねていた。

「本部長、波多野の動きがおかしいので、万一金塊が用意できなかった場合どうしましょうか?」

「おい、それはまずいぞ。今、ただでさえ会員から解約の申し込みが増えているんだ。金塊が実は、ありませんでした、なんてことになったら倒産だけでは済まない。詐欺事件になってしまう。

 そうなると、教団本部との関係まで調べられる。会員から集めた金が全部教団の資金になっていたっていうことが、世間に知られたら、教団自体も立ち行かなくなる。教主様の立場も危ういということだ。」

「どうしたらいいでしょうか?」

「波多野を捕まえて、金塊のありかを調べる。もし、金塊がなかった場合には、渋谷支店は閉鎖する。お前も、消えるしかない。」

「それは、どういう意味ですか?」

「渋谷支店の山川、という男が使い込みをして逃げたということだよ。だから、山川という男はもういない。そして、渋谷支店は責任を取って、閉店し店長以下全員辞職。これで、終わりだ。」

「全員辞職ですか?でも、会員が騒ぎませんか?」

「安宅商事自体も、解散する準備をしなければならないだろうな。それでも、教団との関係だけは秘密にしなければならない。つまり、用意してあったはずの金塊を、すべて山川という男が持ち逃げした、または何処かに売り飛ばした。そう言うことにするんだ。」

――― そうするしかないんだな。まずは、持ち逃げと、売り飛ばした証拠となる架空の売買契約書類を作成するか。その書類を、山川という男が偽造していたということにする。警察の目を山川という男の逃亡に向けるしかない。うまくいけば、会社は被害者になる。

 さて、この俺はどうしようか。山川の名前を捨てて、李哲男にまた戻るか。

金慶国は、もういない。川南一作になったという。
あいつは、まだあの頃のことを覚えていたんだな。
2人とも若かったし、夢も一杯あったな。

もう一度あの頃に戻りたいな。

NEXT LIFE  新しい人生 12

 ルナで、鈴木からゆかりママの弟の失踪について聞いた。

 ゆかりママの弟が入信したという教団の名は、『神州光輪会』という。教祖は花澤行雄。もとは日本労農人民党の創立メンバーの一人だった。

 1950年代は左翼の活動家だったが、1960年代からは右翼活動家になり、今は宗教家になっている。神州光輪会ができたのは1975年、学生を組織し活発な街頭演説で新規勧誘を積極的に進めて大きくなった団体だ。

 花澤の出身は九州長崎の香島だった。香島は炭鉱の島で川南炭鉱という会社が島全体を支配していたのだが、1950年代後半からは石炭が斜陽産業となり、衰退していった。恐らくそこでの、体験が政治運動に関わる動機だったのだろう。

 1960年代には、右翼民族派の企てたクーデター運動にも関わり、逮捕歴もある。ところが裁判では、検察側証人として出廷し、起訴された15人のメンバーのうち唯一人不起訴となった。その後は、宗教活動家として成功し学校法人も経営している。

「では、その裁判では仲間を裏切った、ということですね。そして、その後に宗教家として成功した。つまり、検察と何らかの取引をした、ということですね?」

鈴木は、そこまで疑ってはいないようだった。

「いやあ、そうとは限らないだろう。裁判でも裏切ったのかどうか、どんな証言をしたのかそこまで詳しくは調べていないから、分からないよ。まして、取引があったかなんて、飛躍しすぎじゃないか?」

「それは、大事なことだと思いますよ。その教祖が裏切るような過去のある人物だったとしたら、入信した弟さんは危険なことに関わっているかもしれない。」

「うーん、そうかなあ。ゆかりさんはどう思います?」

ゆかりママは、しばらく考えていた。

「そうね、私は弟を信じているから、そんな疑わしい人物に騙されたとは思えないの。kさんは、弟の失踪に教団が関わっていると思うの?」

「まだ良く分かりませんが、3つの可能性を考えています。

一つは、教団の何らかの秘密を知ったために教団の手によって、連絡が取れない状態になった。

もう一つは、教団の行動を監視していた公安にマークされ、その追及から逃れるために自ら身を隠した。

3つ目は、教団が政界とつながっていて、その政治の闇の部分を知ったために、権力の手によって連絡が取れない状態にされた。」

「それじゃあ、どっちにしろ教団は怪しい組織じゃないか。決めつけすぎてるのじゃないか?」

「そうかなあ、検察側の証人だったという時点で、私的にはアウトですけどね。一度裏切った人間は、次もまた裏切りますよ。そんな人間がトップに立てるはずはない。誰かの後押しがあるんだと思いますよ。」

「それが、政治の力と言う事か?」

「はい、政界と裏取引があるんだと思います。」

「まあ、もう一度その教団と教祖を調べてみるよ。」

鈴木は、渋々だが私の意見を尊重してくれた。

NEXT LIFE  梢 1

 波多野と山川が消えてから、3か月になるが2人の行方は杳として知れない。

 鈴木から聞いた、神州光輪会という宗教団体についても特に目新しい情報はなかった。教祖は幾つか本も出しているが、悪い噂はない。

 気になることといえば、大陸や朝鮮半島とのつながりが一部で指摘されたことぐらいだ。それも、大陸や朝鮮関係の政治家と親しくしている程度で、実際に何か具体的な利権を得ているということではない。

 ただ、大陸出身者や半島出身者が事件を起こして起訴されたりすると、その支援活動をしているようだ。それについては、宗教的見地からの人道支援ともいえるので、非難されることでもない。むしろ、平和主義的な団体からは、評価されているくらいだ。

そんな時にルナで、新しい出来事があった。

「ねえ、梢ちゃんのお気に入りの置物が壊れちゃったんだけど、どうやって修理していいかわからなくて困っているのよ。」

ゆかりママが、そういって鈴木に尋ねた。

「置物ってどんな?」

「これなのよね、インド製の置物で石でできているの。」

「石か、こんなにスッパリと綺麗に割れていたら、何とかなりそうだけどな。でも、どこで修理できるのかな?kさん、どう思う。」

「見せてもらえますか。・・・あっ、これはガネーシャ。これって、梢ちゃんのですか?」

「はい、貰いものなんですけど。」

そのガネーシャには確かに見覚えがあった。切り口が山名の家で見たものと同じだった。

「梢ちゃん、これは貰いものって言ったけど、誰からですか?」

「ええと、それは・・・」

ゆかりママが代わりに答えた。

「大事な人からなんだって。」

私は、鈴木の顔を見たが、鈴木は気が付いていないようだった。

「大事な人って、もしかして波多野っていう人?」

「えっ、どうして?波多野さんをご存じなんですか?」

やっぱりそうか。

「梢ちゃんは、ひょっとして、波多野さんの会社で働いていました?」

「はい、働いていました。でも、今はもう会社がなくなったけど。」

「波多野さんと、連絡はとれますか?」

「いいえ、もう連絡も取れませんけど。どうして、そんな事を聞くんですか?」

「いやあ、僕も波多野さんにはお世話になっていたものだから。このところご無沙汰してたので、会いたいな、と思ったんです。」

NEXT LIFE  梢 2

 鈴木が私に、目配せをした。

「ちょっと、俺、トイレに行ってくるわ。」

「ああ、じゃあ僕もちょっと、いいですか。」

2人でトイレに立った。

「kさん、あのガネーシャが波多野からの貰いものってことは。まさか、梢ちゃんの本名が山名響子ってことか?」

「ええ、多分そういうことだと思います。本名を聞いてみましょうか?」

「いやあ、一応後でゆかりママに確認した方がいいんじゃないか?」

「そうですね、あんまり追及すると、怪しまれますね。」

「でも、そうすると、今梢ちゃんのお腹には畔倉香がいるわけだよな。」

「そうだと思います。」

「ということは、これからお腹が大きくなって、働けなくなるわけだよな。そして、その響子の面倒を見てくれる誰かが出てくるわけだよな。」

「ええ、その予定ですね。」

「誰なんだろう?この店の客なのだろうか?」

「どうなんだろう。でも、スナックの客がそこまでするでしょうか?」

「そうか、それもそうだな。全然別の知り合いなのかもな。それにしても、ここで山名響子に会うとは。どうなっているんだ。これって、何か歴史とか未来とかが変わっちゃうんじゃないのか?」

「ううん、でも鈴木さん、ここは確かに過去にそっくりだけど、別にタイムマシンで過去に戻ったわけじゃないですからね。別の星に来ているわけですすから。」

「新しい人生か?でも、何だかややこしいよな。過去を繰り返しているような、そうでもないような。輪廻とか、転生とかともちょっと違っているような、変な感じだよな。」

「そうですね、今までは、私としては波多野の行方不明の原因を知りたいという気持ちが強かったんです。つまり、私の気持ちとしては、波多野の私に対する誤解を解きたいと思ったんですよ。私が波多野を追い込んだわけじゃないのだと、波多野にも理解してもらうことで、自分の気持ちも落ち着くと。

 ところが、ここで山名響子に出会うというのはちょっと予想外で、どうしたものかと戸惑っています。」

「まあな、俺もそうなんだよ。安宅商事の件を何とかしたいと思っていたけど、結局山川があっさり行方不明になるし、被害者もそんなに騒がずに収まった。何かが違うんだよな。」

男2人の勝手な妄想はとどまるところを知らなかった。

2人そろって、カウンターに戻ると、「ちょっと長いわね。何かの作戦会議?で、結局置物の修理方法は見つかったの?」とゆかりママがせかした。

「ああ、それ僕に心当たりがあります。御徒町の方に石材工房があるので、よかったら梢ちゃん一緒に行って見ませんか?」

NEXT LIFE  梢 3

 渋谷で待ち合わせて2人で銀座線に乗って上野広小路で降りた。だが、実際に歩いてみると、40年前では街の様子も違っていたのだ。

 御徒町の宝飾街は、バブルへ向けて拡大の真っ最中だった。人々も若者が圧倒的に多いのだ。若者のエネルギーが街のエネルギーになっている。

 没落するアメリカと、再び昇る日本、その1つの象徴が宝飾品や美術品の販売の拡大と庶民への普及であり、この御徒町の賑わいだったと言える。

 40年後には、この人たちがそっくり年をとり、60代、70代が中心の街になってしまうわけだが。いくら新しい若者が街に来たところで、絶対数が違う。街全体が老化、縮小してしまうのも納得である。

 私自身かつてはアメ横で登山用のバックパックなどを買い求めたことがあった。それが、40年後にはやはり登山も高齢者の時代である。戦後の経済が、結局人口のボリュームの多い団塊の世代を中心に組み立てられている為、すべてのシステムが老化していく。40年前の上野・御徒町を歩いてみて、自分自身の老化をかえって意識せざるを得なかった。

 あの山名響子が尋ねたという石材工房を探したが見つからなかった。しかし、石材工房自体はいくつもあり、石の修理も簡単に引き受けてくれた。

 修理を待っている間に、近くの喫茶店で待つことにした。

「梢ちゃんは波多野さんの会社で働いていたと言ってたけど、同僚で山名響子さんという人は知っていますか?」

「山名響子ですか?響子という人は、知りません。」

「あ、そうなんだ。あの、梢ちゃんはいつ頃まで波多野さんの会社で働いていたの?」

「私はただのピンチヒッターだったので、1年位前に2か月だけ働いたんです。」

「ピンチヒッターって、どういう意味?」

「社員さんが急に辞めちゃって、次の人が決まるまでの間ということで頼まれたんです。」

「へえ、頼まれたっていうことは、じゃあ波多野さんとは元々何かの知り合いだったの?」


「うーん、あの、本当のことを言うと、波多野は私の父なんです。」

NEXT LIFE  梢 4

 梢ちゃんが波多野の娘!?
 波多野に妻と子供がいることは分かっていたが、その人と会うことになる、などとは全く考えていなかった。

「ええっ、そうだったんだ。波多野さんの娘さんだったとは、意外でした。でも、それじゃあ、お父さんとは連絡取ってないの?」

「ええ、まあ、ちょっと事情があって、今は連絡は取っていないんです。」

 そう言われると、これ以上は聞き辛い。まして、原因は恐らく借金か、或いは山名響子との浮気なのかも知れない。そうでなかったとしても、私がクレジット会社のものだと知れば、やはりいい気はしないだろう。

「あの、月成さんはご存知ですか?」

「いいえ、どんな方ですか?」

「父の会社で働いていた方です。いつも出張で海外に行くことが多かったみたいですけど。お土産を買ってきてくれたりして優しい方なんです。」

「はあ、その方がどうかしたんですか?」

「その月成さんなら、父のことを知っているんじゃないかな、と思ったんです。」

「その人は、今連絡取れますか?」

「ううん、家で調べれば分かるかも知れません。今はちょっとわからなくて、すみません。kさんが、父のことをご存じだというので、月成さんのことも知っているのかと思いました。」

「ああ、すみません、良く覚えていなくて。」

「父とは、どんなお知り合いだったんですか?」

 しまった、逆に質問されてしまった。クレジット会社のものだとは言えない。

「以前、僕は宝石関係の仕事をしていたことがあったんです。その時に仕事で少しお世話になったんです。」

「そうなんですか、今は宝石のお仕事はされていないんですか。」

まずい、適当に答えたら、余計に深みにはまっていく。

「今は、宝石はあまり扱っていないんですけど、まあ骨董品とかをたまに扱ったりしています。恥ずかしいですけど、あまり大した仕事はしてないんです。」

「骨董品って、美術品とかも扱いますか?」

「ええ、まあ、たまにですけど、ありますね。」


「私も、美術品は好きなんです。特に絵画と、あのガネーシャみたいな石の置物などが好きなんです。」

「そうですか、いいですね、ああいうのを見ていると心が落ち着きますよね。」

「もし良かったら、今度一緒に美術館に付き合ってくれませんか?その時には月成さんの連絡先も分かっているかも知れません。」


「ええ、もちろんいいですよ。」

 適当な嘘をついたのが、かえってまずいことになっているのか?

 このまま嘘をつき続けるのは、苦しい。かといって、クレジット会社のものだと白状するのも辛い。それを言えば、きっと父を追い込んだ人間だと恨まれるだろう。うーん、参った。当面は、噓をつくしかないか。

NEXT LIFE  梢 5

 鈴木と、渋谷のガード下にある果林という喫茶店で待ち合わせた。梢ちゃんが波多野の娘だという以上、ルナでは話せないと思ったからだ。御徒町でのいきさつを鈴木に話したが、鈴木は信じられないという顔をした。

「鈴木さん、梢ちゃんは何故、もう一度会おうとしているのだと思いますか?」

「kさん、これねkさんには申し訳ないけど、変な期待は持たない方がいいと思うよ。」

「変な期待って何ですか?」

「梢ちゃんは、kさんを気に入って会おうとしているんじゃないと思うよ。」

「やめてくださいよ、おかしないい方は。私だって、そうは思っていませんよ。だから、どんな目的なのかが不思議なんですよ。」

「目的は、復讐かも知れないよね。」

「復讐って、何の復讐?」

「一つは、波多野を追い込んで行方不明にしたこと、もう一つは山名響子のせいで家庭が壊れた、その逆恨み。」

「それで、一体私にどうしようっていうんです?」

「その月成っていう男、そいつが何かをするんじゃないの?」

「月成が男だとは、まだわかりませんけどね。それに、何かをするって、何をするんです?ちょっと、あんまり突拍子もない想像はやめてくださいよ。」

「まあ、悪かったよ。そんなに怒らいないでよ。でもね、これは普通じゃないと思うよ。梢ちゃんと、会ったのは俺たちがルナに行った最初の日だよね。」

「そうでしたね。あの日、こちらの世界で初めて鈴木さんと会って、いろいろ話したんでしたね。」

「そう、そうしたらその日に初めて梢ちゃんという子が現れたんだよ。俺は、この世界のことはよくわからないけど、過去の世界によく似ていると思っていた。ところが、あの日から変わり始めた。過去と、違うことが起き始めているんだよ。」

「何が言いたいんですか?」

「つまり、俺とkさんだけが、前の世界から来ていたはずなんだけど、あの梢ちゃんも、こことは違う世界から来たんじゃないかってことだよ。そして、俺達に関わってきている、ということは俺達と同じように何かの目的をもってここにきているんじゃないかって、思うんだよ。」

「そうか、そう言えば香さんが誰かに襲われたから、それを守るために私は、ここに来たんでしたね。ということは、その襲った側の人間も、ここにきている可能性がある、ということですか?」

「そうだよ、よく考えれば、梢ちゃんが本当に波多野の娘なのか。月成という人間が本当に波多野の会社の従業員だったのか?まだ確認できていないよね。」

「彼らが、偽物だってことですか?」

「その可能性もあるんだよ。」

NEXT LIFE  梢 6

 梢ちゃんが偽物だとしても、そもそも確かめるすべがない。月成にしても、そう言えば波多野の会社で電話に出たためしがない。月成などという名前に記憶はないが、だからと言って、でたらめだとも言い切れない。

 彼らが、偽物だったとして、どういう目的を持っているのか。

 香のそばにいて、守るのが私の役割だとしたら、襲撃事件の起きる直前から始まるのが自然だ。

 なのに、香が生まれる前からスタートしている。ということは、やはり今の時点で危険があるということなのだろう。

 今は、山名響子を守ることが即ち、香りを守ることになるのだな。

 香が襲われたのは、何か教団内部の争いと言っていたようだったな。
そうだ『天の船』だ、山本一郎が、そう言っていた。その組織の日本の代表だと言っていた。私が山本に会ったのは1978年ごろが最後だ。今から2年前か。
『エクス』は、まだあるのだろうか。

「鈴木さん、エクスという喫茶店があるんですけど。今度付き合ってもらえませんか。」

「いいけど、どこにあるの?」

「東町です。六本木通りを少し広尾の方に行ったあたりです。そこで昔、山本一郎に会ったんです。」

「ああ、エクスか。確か石井刑事が話していたやつだな。そこは、確か左翼革命主義者のたまり場だったという。でもどうして、急に。」

「少し、思い出してきました。あそこで、山本一郎と会ったんですけど、紹介してくれたのは『日本労農人民党』の人でした。ゆかりママの弟さんが入信したという『神州光輪会』の花澤も、初めは『日本労農人民党』に関わっていたんですよね。」

「そうだったな。でも、随分前の話だけどな。関係があるとは思えないけど。」

「ええ、実際には時間が違っていますからね。花澤が『日本労農人民党』に関係したのは1950年代。山本一郎がエクスに出入りしていたのは1970年代。時間はずれています。

 でも、山本が『天の船』に関わったのは1970年代。花澤が『神州光輪会』を作ったのは1975年。それを考えれば時間が一致するかもしれません。」

「そうか、そうすると2人は何処かで接触していた可能性があるんだな。」

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